その時は、決して自由ではなかった。 しかし彼女にとって、それはとてつもない自由であったと言えるだろう。 自由とは枷であり、理想像ではあるが、しかし幸福とは限らない。 だが彼女にとって、その時は実に幸福であったと言えるだろう。 ナイフを手に、赤を身体に、そんな彼女はそこに佇んでいた。
「ふふ、ふふふふ」
気味の悪い笑い声をあげながら、にやりと彼女の唇は歪に弧を描く。 そして血のこびりついた手先をペロリと舐めあげて、彼女は再び笑い出す。 楽しいわけでもなく、笑っていた。 そんな時だった。
「何をしていらっしゃるんですか?」
そんな声が、彼女に降ってきたのは。 好奇心で近づいてきたかは定かではないが、彼女に小さく笑みを浮かべて語りかけるのは、赤い長髪で赤目な、衣服は漆黒だというのに真紅な少年だった。 彼女は虚ろな眼差しで、少年を見る。敵意もなく、まして感謝の意を込めるでもなく。ただただ黙って、無感動に、その少年を見つめていた。幼子のように無垢な、その碧眼に彼を映して。 その瞳に映された少年はとくに不快な気分ではないようで、逆にその瞳に映りこもうと彼女の顔を覗き込んだ。
「お〜い。聞いてますかぁ?」 「……ぁ」
少年の二回目の呼びかけに漸く口を開けた彼女に、少年は満足げに笑った。 彼女は、笑わなかったが。
「君は、どうしてこんなところで泣いているんですか?」
少年は辺りを見回す。彼女の前に肉塊となって平伏す複数人の男達と、そして、同じく既に息のない男が一人、彼女のそばにある壁に寄りかかっていた。 その男は、他の男と違って見えた。彼女に危害を与えたわけでもない、むしろ守ろうとしたのではないか。そんな風に、少年は思えた。 その男は、目を閉じずに光のない瞳で、少年の方を向いている。その頬には、涙の跡が残っていた。 彼も、彼女も、なぜ泣いているのか。 少年の純粋な興味は、彼女に問いかけた。
「なぜ…なのかな」
彼女はナイフを落とし、しゃがみこんだ。
「どうして、こうなってしまったんだろう」
ただ、譫言のように、彼女は少年に問いかけた。少年にはわからないのか、それとも敢えて言わないだけなのか。少年は困ったように失笑した。
「これは、君が望んだ結果なのではないのですか?」 「『望んだ』…?こんなの、こんなのをぼくは望んでいたの?」
自問し、そして「違うよ」と狂ったように笑みを浮かべた。涙に濡れたその顔は、決して美麗というわけではなかったが、少年にはその涙がとても純粋に思えた。
「ぼくが望んだのは、こんなことじゃない。こんなものじゃない。こんな、こんな、こんな、こんな、こんな、こんな、こんな、こんな、」
こんな結末、認めない。
「幸せになる方法があるというのなら、どうして誰も教えてくれないの?可笑しいよ、こんなの。どうして、どうしてこんな風になってしまったの。どうして、こんな結末しか抱けなかったの。どうして、こんな運命なの。どうして、戎里(かいり)くんは死んでしまったの。どうして、ぼくも死ななかったの。どうして、ぼくが死ななかったの」
どうして、どうして、どうして。 絶望したように、狂ったように、彼女は呟き続ける。 それに対し少年は、冷たい目でそれを見下ろしていた。興味が失せたように、そこに期待していたものでもなかったかのように、冷徹に見下ろしていた。
「君も、他の者達と似たようなものなんですね」 「どうして、どうして、」 「…聞く耳も持ちませんか。既に、壊れてしまっているんですね」
このくらいなら多く見てきている少年にとって、今の彼女は取るに足らないただの狂った可哀想な人間だった。ゆえに、少年には今の彼女の言動などただの茶番にしか見えなかった。 すると彼女は、伏せていた瞳をもう一度あげる。彼女の瞳は、生まれたばかりの雛のように純粋なものであると、少年は思う。 何度も様々な存在をこの目に焼き付けてきたが、これほどまでに美しく、哀れなものはなかった。魔女も、王も、盗人も、子供も、大人も、預言者も、騎士も、召使も。動物でさえ、こんな目をしなかった。だからこそ、期待はしたが。
「(期待外れでしたかね…)」
もはや用済みとばかりに踵を返そうとしたそのとき、彼女は動いた。 自殺でも図るのか。そう思ったが、少年の予想とは違った。 寄り添ったのだ。死体となった、彼のそばに。光のない緑玉を閉じずにいるその男に、彼女は寄り添っていた。その反動でか、男の顔は俯かれ、こちらを見なくなった。
「ごめんね、戎里くん」
たった一言。そう言って、彼女は男にキスを落とす。意味のない行為であるはずなのに、それはとても神聖なものに少年は思えた。 彼女の無垢な瞳は、今は亡き男に捧げられている。そして、寄り添っている時の彼女は笑っていた。幸せそうに。小さなその身体に罪の証である赤を纏わせて、精神は罪悪感で潰れそうであるはずなのに笑っている。そんな彼女に、少年は疑念を抱く。 なぜ、彼女は笑っていられるのかという疑念を。
「君は…」
その時、少年はハッとした。 なぜ、自分は彼女の瞳にもっと映りたがったのか。なぜ、覗き込もうとしたのか。それはただの気まぐれであったはずだ。しかし、その本質は違う。 今の彼女を見ていれば、それはわかることだった。 その瞳に、自分は映っていただって? 否、それは勘違いだ。映ることも、断片すら映ること許さぬその瞳に、少年が映り込む隙などなかった。『視』てすらいなかったというのに、それをどうして『映って』いたと言えるのか。 彼女は、あの男しか映さず映せない。それのみを強いられ、それのみを実行してきたであろうその瞳に、あの男以外を映すことなどできるはずもない。 まるで水面のように透き通った目でこちらを見るのは、ただ景色を映しているに過ぎないからだ。少年さえ、今の今まで彼女が引き起こしていた惨劇の痕さえ、彼女の心には届かない。 既に壊れてしまった、彼女には。
「ねぇ、君」
興味が湧いた。そう言わんばかりに、少年はきらきらした眼差しで彼女に迫る。 彼女は虚ろげにこちらを見たまま。未だ景色としてしか捉えられていない事実に、少年は決して不快ではなかったが、愉快でもなかった。ゆえに少年は、にやりと笑うとこう言った。
「やり直したいですか?」
その訊ねに、彼女はぴくりと反応した。その反応を目に、少年は続ける。
「もう一度、やり直したいですか?この運命を、変えたいですか?」 「…かえる?」
疑問を零す彼女に、「そうです」と少年は笑った。とても、無邪気に。
「この男の死を。君の運命の死を。君の望みの死を。もう一度、蘇らすことができますよ。僕の力を使えば」 「戎里くんと、一緒…」
男のことで頭がいっぱいの彼女。それほどまでに、共にいたい相手なのか。それは定かではないが、ともかくも彼女の瞳には、ほんの少しの光が射していたのを少年は見た。 あともう少し。あともう少しで、彼女は堕ちる。少年の掌に。異常なまでの無垢さと純粋さを併せ持つ彼女を、この手に躍らせるために、少年は手を伸ばす。セカイの戯曲《ドラマ》を共に見、時に踊り子《ドール》となってくれる者を、今漸く、見つけたのだから。
「さぁ、この手を取るのです」
さすれば君は。
「様々な永遠を手に入れることができるでしょう」
ゆらりと。不安定なものでありながらも、彼女は手を取る。片手は少年に。もう片方は冷たくなった男の手へ。 彼女は希望という生を求めたのかと問われれば、きっと違うのだろう。しかし絶望という死でも求めたかったのかと問われれば、それもまた違うのだろう。 彼女がいったい何を求めて、少年の手を取ったのか。それは誰にも分かることはなければ、まして彼女にさえわからない。 何はともあれ。 彼女は降(くだ)る。道を踏み外した。人の子として死せる自由を奪われる。しかしそれは、彼女にとっては取るに足らない対価であるのだろう。 だからこそ、後悔などしていない。 人の子として生きることに、なんの意味があろう。誰の子であれ、生き方は様々にあるというのに。しかし神は語る。誰の子ではなく、一族である者たちと生きよと。狼ならば、狼として。植物ならば、植物として。人間ならば、人間として。 少年も同類であったはずだった。彼も同じ存在であり、他の者達と等しいことを語り、広めていたはずであるのに、少年はその語りに反することをしていた。 自らの居場所を檻と呼び、逃亡と称した観賞をしてきた少年が、望んで枷を嵌める人の子を手に入れた。それは運命と呼ぶべきものなのか。運命を司り、幾億の命を統べる少年さえもわからない。
「君、名前は」
少年はふと、訊ねる。死屍累々の赤い海の中で生える碧は、無垢を湛えたまま、言った。
「………ありす」 「ありす?いい名前ではありませんか。アリス」
アリス。無垢な彼女に相応しい名。そう思い、少年は満足げに笑う。 しかし、その少年に少々不満げのようで彼女は言った。
「いい名前、ではありません」
初めて、少年とまともな会話を交わした彼女。珍しいものを見たかのように少年は目を丸くし、素直に疑問を口にした。
「いい名前ではないのですか?どうして?」 「………」
彼女は暫く答えようとしない。それに対し、少年は溜息をついた。話題を提供したのは彼女なのだから、話すべきだろうに。そうは思ったが、もともと壊れている彼女にそんなことを言っても無駄なのだろう。それを悟り、少年は敢えて何も言わず苦笑する。 そのとき、彼女は小さく何かを呟いた。聞き取れず、少年は「ん?」と次の言葉を促した。
「……」 「どうしたんです?言いたいことがあるなら、言ってみなさい」
そう促せば、彼女は俯いてしまう。感情はとりあえずあるようで一安心だが、どうして露骨に話したくないというような態度を取るのか。正直なところ、少年にはよくわからなかった。 そして直に、彼女は口を開いた。
「こんな名前であるのに、どうして『こんな』なんでしょうかね」 「…はい?」
言葉の意味が理解できずに、少年は首を傾げる。彼女はそんな少年の様子に関して特に気にしていないのか、言葉を続けた。
「ありす。藍理朱(ありす)。もし『本物』だったなら、戎里くんと結ばれたのに」
無念と言わんばかりに、彼女は声音を低くする。なんとなく、言葉の意味を察することのできた少年だったが、少々信じられずに目を瞬かせる。そして暫くし受け入れたのか「そうですか」と再び苦笑した。
「ではアリス。行きましょうか」 「…あなたは」
『彼女』は、少年に訊ねる。すると少年は、にっこりと笑った。
「僕の名前ですか?」
僕の名前は、レンカといいます。
陽気な声と共に、青と赤は消えゆく。 永久に交わることのない赤と青。 紅と蒼。 碧と緋。 それらは対局ゆえに、交わることなどない。 そんな彼らが、出逢う。 本来なら交わることなどないこの世界で。運命で。 赤は透き通った青に手を伸ばし、青は孤高の赤の手を取った。
これは、自らを戒める枷と鎖を愛する『彼女《アリス》』と居場所を嫌う『少年《カミサマ》』の出会い序曲。
様々の永久を願わせ、願った者たちの、輪舞曲(ロンド)である。
|