※アイチが人魚兼神様







とある夏休み。小さな町を取り囲む山々の森は緑に生い茂り、まだまだ気温が上昇するであろうことを窺わせる晴天の朝、櫂は遠い親戚の家に向かっていた。
田舎の為に長いこと電車に乗り継ぎ、少々汗を滲ませながら、櫂は親戚の家に戸を叩く。すると、親戚であるお婆さんが出迎えた。

「よく来たね。上がりなさい」
「はい」

和風な家であるからこその特徴か、廊下を歩くたびにぎすぎすと音がなる。
櫂は重い荷物を置くと、そばにいたお婆さんに言った。

「少しでかけてきます」
「そうかい。早めに帰っておいでな?」

柔らかい笑みを浮かべ、お婆さんは櫂を見送る。
彼女はいつも櫂を止めない。どこか温かな笑みで、櫂をいつも見送ってくれる。
それに対し、櫂は感謝してしまう。本来なら、なぜすぐに出かけるのかとか、理由を聞くだろうに。何も聞いてくれないだけ、嬉しいものだ。だが結局理由を聞かれたところで、なんと答えるべきか櫂自身でも分からないのだが。

櫂は毎年通い慣れた山の細道をぐいぐいと進んでいく。人気の無く、森に囲まれたところであるがゆえに、よく動物の声がしたりと自然豊かな環境だがしかし、櫂はそのようなものには全く興味は示していない。
ただ生えている長めの草をかき分けていく。

(久しぶりに来たな)

もう半年、いや一年は会っていないのか。
そう考えながら、汗でベタ付く髪を鬱陶しそうに掻き上げながら、櫂は更に奥へと進んでいく。
そうしていくうちに、道はどんどん細くなり、そして周りも木々の密集により暗くなっていく。正に獣道と言わんばかりの道を今櫂は歩いていた。
歩いていくと、櫂は仄かに明るいところを前に見据えた。そして、何かを確信したように走り出す。
草が足に絡むのも顧みず走り続けたその先には、湖が広がっていた。
海のように青く、どこか神聖とも思えるその光景に、櫂は目を細める。
そして、櫂は湖の畔まで近づき、そっとしゃがむと、湖の中にそっと片手を沈める。水は冷たく、ひやりとした夏ゆえの気持ちよさが櫂の身体を廻る。
櫂はそこから暫く動こうとはしなかった。ただ手を入れているところのみをじっと見詰めており、まるで何かを待っているようだった。
そして直に、ちゃぷん、と。どこからか波紋が広がった。周りには何もいない。
唐突に、櫂の手が誰かに掴まれたような感覚がした。
櫂は少し驚いたのか、余所見をしていた目線を手の方へと向ける。
そしてそこには、

「久しぶりだね、トシキくん!」

湖よりも蒼く美しい尾と髪を持った、少女とも見紛える少年がいた。






「全く、驚かすな」
「だって、ずっと来てくれなかったから…」

少年は大きな魚のモノのような蒼い尾を水面から出しを揺らしながら、にこにこと笑う。
前半身は裸、下半身は魚というこの姿は、正しく人魚の姿である。
この少年の名はアイチという。この湖に住まう、神様らしい。
いや、アイチが言うには、神様は先代のサラスヴァティーという者が務めていたそうだが、今の世の時代ではもう力を失った、要は元神様らしかった。
櫂がこの少年に出逢ったのは、もう随分昔の話だ。
この山に探検に行ったが、迷子になって。そこから山を彷徨っていたら、この湖に辿り着いたのだ。そして出逢ったのが、この人魚である少年アイチだ。
アイチは道に迷い困っていた自分を慰め、必死で励まして、最終的には慰めたアイチ自身が慌ててしまい、二人で笑った。それから、アイチのたった一人の話し相手としてここに通っていたのだ。
だがしかし、結局それは夏休みの期間なのであって、櫂も学校へと通わなければならない。
櫂はその事実がたまらなく嫌だった。友達との約束を全て棒に振ってでも、アイチと一緒にいたかったのだ。最初は親に事情を、とか思ったが止めた。あまり他人に見られたくない。人見知りなアイチのことだから、大勢で来たらきっと怖がって出てきてくれない。そう幼少期の櫂は思い、このことは誰にも言っていない。そしてそのことが功を奏したのか、今までこの湖に櫂以外の人が訪れたことはなかったとアイチは笑った。

「でも…本当にもう逢いに来てくれないのかと思った」

アイチは寂しそうに眉を八の字に曲げる。櫂はアイチの頭を撫で、「すまなかった」と謝った。
するとアイチはピョイっと身体を水の中から起き上がらせると、拗ねたように頬を膨らませた。

「そ、そんな顔させたくて言ったんじゃないんだよ…!ただ、その。寂しかっただけなの。逢いに来てくれて、僕、本当に嬉しいんだよ?」

そう言い抱きつくその姿は、やはり見た目よりも幼く見える。櫂はアイチのさらさらとした髪を梳いた。

「俺も寂しかった」
「ほんと?」
「あぁ」
「…そっか。トシキくんも寂しかったんだね。よかった、僕だけじゃなかったんだ」

安心したように櫂と目を合わせ笑う姿に、櫂も頬を緩ませる。
それから櫂は、アイチと他愛のない会話をした。
今どんな学校に通っているのか、どんな行事があったのか。ほんの少しの世間話に、アイチは飽きることなく聞き、何かを話す度にアイチは目を輝かせた。

「__そんなことがあったんだ!いーなぁ…。楽しそう」
「そうか?疲れるだけだぞ?」
「そんなことないよ!聞いてるとどんなことやってるのか、実際に見てみたくなるし。それにトシキくんの顔、とても楽しそうなんだもん」

無邪気に笑い、櫂も困ったように笑みを浮かべる。アイチは時折水をぱしゃぱしゃと自身の尾で叩きながら、まるでお伽噺にどきどきする幼子のように櫂の話を楽しげに聞いていた。
アイチからの話題はあまりない。ずっとこの風景を見続けているのだ。話題を出そうにも出ないのだろう。
アイチとの会話に夢中になっていると、帰れとでも言うかのようにカラスの声が湖に響く。気付けば、もう空の半分が橙に染まっている。
そろそろ帰らなくてはならなかった。アイチはそれを察したのか、悲しそうに言った。

「もう帰っちゃうの?」

蒼い尾を揺らめかせるアイチに、櫂はもう一度柔らかな蒼い髪を撫でた。

「また明日も来る」

そう言い、本来なら帰らなくてはならなかった。
櫂が立ち上がろうとした瞬間、腕が引っ張られる感覚がした。思わず振り向くと、櫂の唇に温かなモノが触れる。すぐに離されてから、その行為がキスであったことに、櫂は約数秒間の間で漸く察した。
目を見開き思わず唇を手で覆う。アイチは頬を赤く染め、ふるふると震えている。

「アイ、チ?」
「…また明日も、来てくれるんだよね。本当に、来てくれるよね?」

ぽろぽろと涙を落とすアイチに、櫂は何もできない。
アイチは続けた。

「ずっと独りぼっちだった僕を見つけてくれた。それなのに、また独りぼっちに戻るのは怖いの。トシキくんがまた来てくれるって分かっていても、怖くて。…僕も人になれたらよかったのに」

そしたら君と、ずっと一緒にいられるのに。
そう言うと、アイチは涙に濡れたその顔で困ったように笑った。

「ご、ごめんね!こんなこと言っても、迷惑…だったよね。じゃあ、また明日ね」

湖に帰ろうと今度はアイチが背を向ける。すると、今度は櫂が、ぽつりと呟いた。

「好きだ」

その言葉に、アイチの動きは止まる。
櫂は再びしゃがみ込む。

「俺だって、離れたくない。本音を言ってしまえば、ずっとここに残っていたかったんだ」

アイチは黙ったままだ。それでも櫂は言葉を紡ごうと口を開いた。だがそれよりも先に、ちゃぷんという音が、先に響いた。

「じゃあ、そばにいてよ。…僕も君のこと、大好きなんだ。大好き、大好き」

そうして振り向いたアイチは、ただ涙に溢れていた。
離れたくないとばかりに手を伸ばし、櫂もその手を掴んで引っ張り上げて、その小さな身体を櫂は抱き締めた。
いつの間にやら空はもう、橙に染まっていた。
森は深い闇に染まる。まるで、逃がさないとでも言うかのように。






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