とてもじゃないけれど、見ていられなかった。
 もちろん、絶対に見なければならない、なんてことはない。たとえば恋愛映画の生々しいラブシーンにおいて両手で顔を覆うように、私だってそうするべきだったのだ。
「レンタルビデオショップのレジカウンターの前で突然両手で顔を覆う女がいたら、俺は間違いなく他人のふりをする」
「でも! だって! あの店員さん私の免許証すっごいしっかり見てたんだもん! あれは絶対こいつ写真写り悪いな、って思ってる顔だった!」
「どう考えても身分を確認していただけだろ」
 新作映画のDVDを三作借りて店を出たあと、私は抱え込んでいた不満を一気に吐き出した。しかし隣を歩く男は、そんなのはプランクトンよりも小さな悩みだ、とでもいうように指摘を続ける。
「だいたい、そんなに見られたくないなら見せなければいい」
「でもポイントカード作ったら百円引きしますって言われたから……」
「お前はポイントカードを作りすぎなんだ。だから財布が不必要に重くなる」
 私の膨らんだポケットを指差しながら、二宮はそんな小言を告げてきた。話の軸をまるで違う方向にずらされたことで、私は頬を膨らませる。このままだと膨らみ帝国の女王になってしまう。そんな私を見ると、二宮も二宮で眉根を寄せる。
「何だその顔は」
「二宮が私のこと慰めてくれないから拗ねてる」
「慰める必要性を感じないのだから当然だ。むしろ不満を抱いているのは俺のほうだ」
「え。二宮、私に慰めてほしいの?」
「忘れ物をするな、と言っている」
 いささかどすの効いた声でそう告げた男の眼光は、今日も今日とて鋭く輝いている。まるで板前が愛用している和包丁のようなまなざしだ。そんな和包丁に見つめられれば、初対面の人間はみな身を縮こまらせ、背すじを正すことだろう。だが私は彼とは初対面でも何でもないので、猫背のまま、悠長に歩みを進めている。二宮は体内に溜め込んだ全ての二酸化炭素を吐き出すように、長い長いため息を吐いた。

 基地を出てしばらく歩いたところで、ポケットの中にスマートフォンがないことに気がついた。それを二宮に報告すると、彼は遠くの景色を確認するときのようにすうっと目を細めた。そのときの彼のオーラは実に禍々しいものであった。ぜひカリスマ霊能者に見てもらいたいと思うほど凄まじかった。
 だが最終的には、彼は私に付き合ってくれることとなった。そして「借りたいDVDがあるからそっち先に行っていい? 閉店時間近くてさ」とお願いしても、さらに顔をしかめるだけに留めてくれた。それももちろん小さな子どもが見たら泣いて逃げ出してしまいそうな形相だった。けれど私は彼を節分の鬼だなんて思ったことはないので、当然その手をとって、悠々とレンタルビデオショップに立ち寄った。
 そこで新作映画のDVD三作をレジカウンターに置き、ポイントカードを作るために己の免許証をしぶしぶ差し出した。何でも顔写真がついている身分証でないとだめらしいのだ。そしてその顔写真は、とてもじゃないけれど、じっくり見ていられる代物ではなかった。少なくとも遺影にはしたくない。

 真っ先に向かったのは、諏訪隊の作戦室だった。何もその部屋がボーダーの落とし物置き場になっているわけではない。諏訪さんが忘れ物探知機となったわけでもない。本部を出る前、最後にいたのが諏訪隊の作戦室だっただけだ。居心地のいい彼らの作戦室を、私は休憩所のように思っている。そんなことをヘビースモーカーの隊長に言えば、「しばくぞ」と睨まれた。彼のまなこは二宮とはまた違う系統の鋭さを持っている。が、当然怖くはない。私はわりと無敵なのだ。

 作戦室に近づくにつれ、がやがや声が聞こえてきた。それを耳にした二宮は、さらに顔をこわばらせた。そんな彼をとりわけ気にすることなく、私は門を叩く。
「あ? 何の用だ」
 出迎えてくれたのはあるじの諏訪さんであった。その奥には冬島さん、東さん、太刀川が机を囲んで座っている。机の上には麻雀牌がいくつも転がっている。おなじみの光景だ。
「スマホ忘れちゃって。たぶん、というか絶対諏訪さんのとこにあると思うんですけど」
「あー、そういや見たような見なかったような。けど今この通り散らかってんだわ。てきとーに探せ」
 諏訪さんはラーメン屋の店主のような口調でそう言った。私は「はあい」と気の抜けた返事をし、その場に足を踏み入れる。二宮ははじめ扉に背を預けていたが、私が「二宮も探すの手伝って〜」と腕を引けば、海外にも届きそうなボリュームで舌を打ちながら、こちらに寄ってきてくれた。
「お、二宮。どうしたんだ?」
「こいつの付き添いです」
 ソファにもたれながら尋ねてきた東さんに、二宮は簡潔に答えを返す。そのあとはなぜか無意味に太刀川を睨んだ。太刀川はそのことには気づかず、呑気に週刊誌のページをめくっている。私はこっそりその雑誌に目を向ける。
「あ、太刀川ちょっとえっちなやつ読んでる」
「俺はこの政治家の記事を読んでるだけだ」
「今ページ変えたばっかでしょ。さっきまでセクシーなお姉さん見てたじゃん」
「さすが。鋭いな」
「えへへ、でしょ? というか、さっきのお姉さんすっごいかわいかったね。私にも見せて」
「おい。探す気がないならもう帰るぞ」
 太刀川がページを戻したところで、背後から声がかかる。振り返った先にいた二宮匡貴は、動物園から逃走した虎のような顔をしている。動物園から虎が逃走するなんて、あまり想像できないかもしれないけれど。
「まあまあ、ちょっとくらいゆっくりしてこうよ。二宮隊長も任務とかでおつかれでしょ。一緒にグラマーなお姉さんで癒されよ」
「どの立場で言っている。そして疲れているのは十割お前のせいだ」
「あはは、ごめんごめん。あ、見て二宮。この人首元にほくろがある。超セクシーじゃない? いいなあ」
「一人でぺちゃくちゃと喋るな。だいたいお前も似たようなの背中にあるだろ」
 そう二宮が言った瞬間、北の国のように場が凍った。そののち、冬島さんと諏訪さんは全く同じタイミングでコーヒーを吹き出した。東さんは仏のような顔でこちらを見つめており、太刀川はにやにやと含み笑いをしている。そしてその力強いまなこで「お前らはそういう行為をしてるんだな」と私に訴えていた。
 私は全身を硬直させたあと、全身を紅潮させた。まさしく顔から火が出る思いだった。そしてその火を放たないように、懸命に話を逸らす。
「に、二宮はセクシー系は好みじゃなかったみたいですね! あはは!」
「でなければお前とは付き合っていない」
 しかしこちらがどれほど話の軸をずらそうとしても、男は全くぶれることはない。正確な定規のように背すじを伸ばしている。太刀川は「かわいい系だもんな」とわけのわからない相槌を打っている。二宮はそれに対しても全く赤面することはない。まるで見ず知らずの人間の話をしているような態度だ。
「も、もうこの話おしまい! ほら太刀川週刊誌しまって! このお姉さん写真写りいいから嫉妬しちゃう! 免許証のこと思い出す!」
 それでも私は軸をずらすことに尽力する。太刀川はぱちぱちとまばたきをしたのち、悪者のように喉を鳴らした。
「出た出た、またその話か。つかあれだろ、免許証ってみんな写真写り悪いもんじゃなかったか? どーなの冬島さん」
「ああ、俺は出所後の落武者みたいな顔になったことがある」
 免許を持っていないやつと十個近く歳の離れた男の人に言われても、と私は思う。太刀川は出所後の落武者という強烈なフレーズには触れることなく、こちらに身を乗り出してくる。
「つか、そんな言われると逆に気になるんだが。一回見せてくれよ」
「見せるわけないじゃん。本当にやばいもん」
「ふうん。実際どーなんだよ、二宮くん?」
「別に。少しも悪いところはない」
 ほとんど唐突に話を振った太刀川に対し、二宮は平然とそう答える。一見すると冷凍食品を食べたときのような当たり障りのない反応であるが、私は二宮の最上級の褒め言葉が「悪くない」であることを知っている。そのため二の句が継げなくなって、体温を上昇させ、わなわなと震えることしかできなくなる。
 やがて冬島さんが「あったぞ」と海に潜ってモリで魚を獲った芸人のようにスマートフォンを掲げたので、私は礼を告げ、素早くそれを受け取った。
 それから二宮の手を引いて、忍者のように部屋を出る。もう片方の手は、膨らんだポケットの中にしまった。そしてここが膨らみ帝国なんかではなく、二宮匡貴帝国であると確信する。
 ポイントカードは今日作ったばかりだが、それでも私の彼への愛のポイントは、みるみる溜まってゆく。台紙がスタンプで埋め尽くされたあとは、一体どのような景品がもらえるのだろう。抱擁か、口づけか、それ以上のものなら嬉しいのだけれど。そんなバカみたいなことを思う。
 夜空から降り落ちる星の光は、カメラが放つ光よりもなお鮮烈だ。

23.0303

23.12/17「恋の副作用DR2023」にて無配として頒布したものです。
参加させて頂きありがとうございます!
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