玄関には三つの靴が並んでいた。そのどれもが綺麗に揃えられている。靴と靴の間隔は均等であったし、先端は全て扉のほうを向いていた。まるで兵隊みたいに。
 俺は玄関マットに座りながら靴紐を結び直していた。横にいた男はすでに履き終えたようで、颯爽と立ち上がっている。
「じゃあ、また学校で。時間見つけて今度どこか行きましょう」
 彼、歌川遼は背後にいた彼女にそう告げた。まるで金曜日のサラリーマンのような言い方だな、と俺は思う。しかし彼は金曜日のサラリーマンではないし、ゴルフや飲みに誘ったわけでもない。だから彼女は赤面し、恥ずかしそうに頷いているのだ。
 歌川は礼儀正しく頭を下げたのち、ひらひらと手を振った。俺も短い挨拶を口にし、外へ出た。

 クラスメイトの彼女と歌川に接点があると知ったのは、およそ三ヶ月前のことであった。委員会で知り合い、犬の話で盛り上がり、意気投合したらしい。「付き合うのか」と何気なく尋ねてみれば、「可能性はありますね」と歌川は答えた。分析した結果そうなりました、というような理性的な回答であった。
 そして彼の読み通り、二人は付き合うこととなった。特に驚きはしなかった。純粋にお似合いだと思ったし、うまくいくだろうとも思った。実際、交際は順調なようであった。
 
 彼女の家に足を運んだのは、期末テストの勉強会をするためだった。誘ってきたのは歌川だった。ちょうどボーダーでの訓練を終えたあとで、一緒に基地を出たのがきっかけだった。
 俺は「邪魔になる」と二回ほど断ったのだが、歌川は「とんでもない」と二回ほど首を振った。
「向こうもわからないところがあったら奈良坂先輩に聞けますし。いてくれると助かると思いますよ」
 そう言われるとかえって断りづらくなってしまい、俺は頷くことにした。歌川は柔らかく微笑むと、早速彼女に電話をかけた。その声は普段より弾んでいる気がした。

 俺たちは彼女の部屋に向かい、学生らしく勉強を始めた。最初はよかった。彼女の解けない問題を教えたり、逆に彼女に助けてもらうこともあった。だが二時間ほど経過すると、居心地の悪さを感じ始めた。あけすけな物言いをするならば、二人の放つ甘いオーラに耐えきれなくなったのだ。
 二人というか、主に歌川だ。彼は指先が触れるだけで過敏に反応する彼女を「これくらいでかわいいですね」と笑ったり、「今日もいい匂いですね」と脈絡もなく褒めたりするのだ。
 それを横で聞かされる身にもなってほしい。というか普通に俺は邪魔だろう。そう確信し、参考書やノートを鞄にしまい始めた。
「あれ。どうしたんですか」
 帰り支度をしていれば、歌川は不思議そうに首をかたむけた。俺は「用事を思い出した」ととってつけたような言いわけを返した。返したあとで、もう少しマシな理由が浮かべばよかったと思った。これではさっさと立ち去りたいと言っているみたいだ。実際、さっさと立ち去りたいのだが。
「まあそろそろ暗くなりますしね。オレも帰ります」
 しかし歌川も荷物をまとめ始めたので、俺はかすかにたじろいだ。このあとは、てっきり二人の時間を楽しむのだと思い込んでいたからだ。そしてそれは、彼女も同じようだった。
「う、歌川君も帰るの?」
 寂しげな様子で歌川のシャツを掴む彼女は、冬のうさぎのようだった。ケージの片隅で丸まっている、冬のうさぎ。
「すいません。親が心配するんで」
「あ……そうだよね」
 彼女の声は段々としぼんでいった。仕方のないことだと把握しつつも、やはりしょげているようであった。唇の結び方もうさぎによく似ている。
「そんな顔しないでください。ずっと一緒にいたくなっちゃいます」
 感服してしまうくらい情緒的な声を発すると、歌川は彼女の髪を優しく撫でた。その横顔は充実感を得ているようにも見える。
 俺はどこか遠くを眺めながら、静かにため息をついた。そうして甘ったるい空気を浴びながら、美しい靴を迎えに行ったのだ。

 帰りの道すがら、コンビニに立ち寄って飲み物を買った。俺は水を買い、歌川はお茶を買っていた。ラベルには健康や血圧という単語が並んでいるお茶だ。少なくとも十六歳のチョイスではない。陽介はまず選ばないだろう。
「歌川って、いつもあんな感じなのか」
 俺はさりげなくそう問いかけた。歌川は喉を潤しながら、きょとんとした顔を見せた。
「あんな感じって、どういうことですか?」
「ああいうふうに……甘やかしたり、構ったり」
 指を折りながら、ちらりと歌川を見る。彼は意表を突かれたとでもいうように、目を丸めていた。
「え、オレ全然そんなつもりないですよ」
「……そうなのか」
「はい。全然」
 歌川は女性の扱いが非常にうまい。それはボーダーでも言われていることだ。だからおそらく、あれらは全て無意識下で行われていたのだろう。そう納得し、俺は一つ息を吐く。
「普段はもっと甘やかしてますよ」
 納得したところで、更なる追撃が降ってくる。俺は思わず咽せてしまいそうになった。だが何とか平静を保ち、一度だけ咳をする。
「まあ、うまくいってるならいいと思う」
「はい。順調です」
 当たり障りのない所感を述べる俺に対し、歌川は満面の笑みを返す。しかしそのあと、悩ましげに眉を下げた。
「でもあの人、疲れるの早いんですよね」
 頬をかきながら、彼は一人そう呟く。相談なのか惚気なのかよくわからない。後者ならば一体どんなベクトルの惚気だ。そう心の中でつっこみながら、俺は半ば呆れ返る。もう巻き込まれるのはごめんだ。今度は三回断ろう。そうして二人だけの宇宙を裸足で馳せ回ってくれ。そんなことを思いながら、やはり遠くを眺めた。

23.0513

23.5/4「超吾が手に引き金を2023」にて無配として頒布したものです。参加させて頂きありがとうございます!
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