エレベーターが昇り始めてから、一体どれほどの時間が経過しただろう。四階、七階、九階。エレベーターは着々と昇り続けていたが、終わりは見えそうになかった。ひょっとしたら三二三階くらいまであるエレベーターなのかもしれない。そう思ったのは、いつまでも扉が開かないからではない。少年の口づけが長すぎるからであった。
 エレベーターの「十三階です」という優しげな機械音が聞こえると、彼はようやく唇を離した。すると私たちの間に透明の糸が生まれた。透明の糸、などという表現はいささか美しすぎるだろうか。彼は「ふぅ」と息を吐いた。それから何故か目線を落とし、こう言った。
「名前さんの足、何かおもちゃみたいですね」
 彼の足だって立派に成熟しているわけではない。しかし私の爪先と彼の爪先が向かい合うと、確かに私の足はおもちゃのようであった。
『おれ、背は特別高いわけではないんですけど、足は結構大きいんですよね』
 彼は以前そんなことを言っていた。私は何だか憂鬱な気持ちになった。
 十三階の共用廊下はいつもより薄暗い気がした。マンションの最上階だから、というわけではないと思う。
 ところで、どうして最上階が十三階などという半端な数字なのだろう? もっとマシな数字はなかっただろうか。



 昔から男の人が苦手だった。父親が教育熱心で厳しくて、祖父も冷たい人間だったからだ。冷たい人間、という言葉は曖昧だろうか。しかし祖父は会話をしても返事をしてくれなかったし、私と二人きりになるとため息をついた。それだけで、子供の私には「冷たい人間」に見えたのだ。
 父親に関して言えば、箸の持ち方が違うだけで手を叩かれたりだとか、二十二時までに眠らなかっただけで怒鳴られるとか。まあ、具体的な理由をあげるとキリがない。
 だから祖父が病気で死んだとき、父が大規模侵攻で死んだとき、私はさほど悲しくなかった。悲しくなかったと思うことのほうが、よっぽど悲しかった。
 
 転機が訪れたのは中学三年生のときだった。
 その日私は後輩に貸した英和辞書を返してもらうために、二年生の教室に向かった。通り過ぎる教室は全て騒がしかった。今年の二年は少し荒れているらしい。私はシンバルを叩く猿のことを思い出した。
 その空間から早く抜け出したくて、私はよく確認せずに教室の扉を開けた。視界に入ってきたのは、着替え中の男子生徒数名であった。彼らはボクサーパンツや焼けた肌を晒した状態で、私を見つめた。そのあと、おどけるように笑った。みんな同じ笑い方だった。誰も恥ずかしがってなんかいなかった。彼らの裸は安価なのだ。おそらく。
 私は慌てて謝罪をし、すぐに扉を閉めた。英和辞書は結局取り戻せなかった。だから次の授業では調べられないことが多くあった。私は辞書がないと何もできないのだ。まともに翻訳できたのは"It’s more fun to have a lot of people"くらいであった。
「人はたくさんいるほうが楽しいです」果たしてそうだろうか?

 彼らは「彼」ではなく「彼ら」だった。だから私は一人一人の顔を覚えていなかった。でも向こうは違った。彼らは私を見かけると、大きな声で私の名前(おそらく調べたのだろう)を呼んだ。廊下ですれ違うと、激しく手を振られたりなどもした。それに対して誰かが注意をしたけれど、「だって俺ら裸見られたんですよ」というインパクトのある言葉に、誰もが興味をそそられた。そのたびに私は怪しい、またはいかがわしい視線を向けられた。どれだけ無視を決め込もうと、なかなかその悪ふざけは終着しなかった。
 火遊びは次第にエスカレートしていった。下校時に「いつヤらせてくれるんですか」という言葉をかけられることが日常と化した。ぶつかるフリをして身体を触られることもあった。担任に相談すれば、「まあそういう時期だから」と笑って流された。
 私はあまりにも腹が立ったので、些細な報復をすることにした。グループの主犯格を呼び出して、そのまま待ちぼうけさせたのだ。見ていた友人から話を聞くと、三時間は待っていたそうだ。いい気味だと思った。だがそれに対する報復もないわけがなかった。
 報復の報復。何だか、もうよくわからないな。

 翌日私は塾の帰りに彼らに呼びとめられ、人気の少ない路地に連れ込まれた。彼らは私の身体を抑え、怒りと性欲をぶつけようとした。シャツのボタンを引きちぎられ、スカートをめくられた。私が悲鳴を上げようとすれば、誰かが私の口元を抑えた。興奮した息づかいが聞こえ、嗅いだことのない異臭がした。彼らはみんな気持ちの悪い汗をかいていた。私は震えながら、密やかに涙を流すことしかできなかった。
 あとほんの数秒で、誰かの指が私の中に入ってくる。そんなときだった。痛々しいくらいのLEDライトが、私たちを照らした。正面から懐中電灯を向けられたときのように、誰もが眩しさに目を瞑った。私も目を瞑ったと思う。だから何かが私の腕を引いたことに気づくのに、数秒遅れた。
 それは自転車のライトだった。彼はサドルに跨りながら、私の腕を引いたのだ。反対の手はハンドルを握っている……わけではなく、アイスの棒を握っていた。彼はその氷をぺろりと一度舐めた。
「何だよ、米屋かよ。驚かせんなって」
 彼らの内の一人は、どこかほっとしたようにそう言った。一度、ちりん、と自転車のベルが鳴った。米屋と呼ばれた少年が鳴らしたのだ。特に意味はなかったと思う。
「いや、驚かされたのはこっちっつーか。おまえら、これはさすがに犯罪じゃね?」
「いいんだよ。そいつが舐めた態度取ってるからいけないんだし」
「ふーん。そうなの?」
 少年はもう一度無意味にベルを鳴らした。自転車のベルは誰もが無意味に鳴らしたくなるものである。そのあと、彼は私を見下ろした。私は慌てて首を振った。少年の瞳はハイライトがなくどこか暗いように見えたが、厳かなものではないような気がした。だって私が頷くと、彼はにっこり微笑むのだ。
「だろうな。知ってる知ってる。じゃ、家まで送るぜ。どこ住み?」
「ちょっ、お前何勝手に……」
「あー、そういえばさ」
 米屋と呼ばれた少年は私の腕を掴みながら、自転車のスタンドを勢いよく蹴った。そして彼らを振り返り、嘲笑を含みながらこう言った。
「よくわかんなくてさっき警察呼んじゃったわ」
 そして、パトカーのサイレンがいくつか聞こえてくる。メロドラマ並みの完璧なタイミングであった。パトカーは猛スピードでこちらへ近づいているようだった。彼らはみんな同じように顔を蒼くした。喉に釣り針が刺さった魚みたいな顔だった。だが彼らは魚ではないので、二本の足でパタパタと路地の奥に走り去って行った。サイレンは今もなお鳴り響き、どこまでも彼らを追い詰めるつもりらしかった。
「あいつら、同じクラスなんだよな」
 一区切りつけるように、彼はそうつぶやいた。それと同時に、私の腕を掴む力も少しだけ緩めた。
「最近一個上の先輩に絡んでるとは聞いてたけど、あれはねぇな。やりすぎ」
「……あの、え、っと」
「あぁ、オレ米屋陽介。通りすがりのイケメン、的な?」
 彼は茶化すように自身の頬を指さした。私はどう反応したらいいのかわからず、スカートの裾をぎゅっと握った。かわいらしく、礼か笑みでも返せればよかったのだけれど。
「あー……そういや男嫌いなんだっけ? こういうのうぜーよな。悪い悪い」
「いや、そ、そんなことは」
「無理しなくていーぜ。つか、先に警察行く?」
 米屋くんはアイスを齧りながらそう口にした。そして私の腕から手を離した。気を遣ってくれたのだろう。だが彼に掴まれていない私の腕は、何だか私の腕じゃないみたいだった。
「……今日は、ちょっと」
 彼らが補導されれば、翌日学校でも根掘り葉掘り聞かれることだろう。大ごとにしすぎて母に不要な心配もかけたくない。それに何より、今日は早く帰って休みたかった。
「まあその気持ちもわかる。じゃ、やっぱふつーに家まで送るわ」
 米屋くんは自転車を押して歩き出した。アイスはかすかに溶けていた。猛暑が終わりかけた八月の、およそ二十一時頃の出来事であった。

 米屋くんは私の一歩後ろを自転車と共に歩行した。隣を歩くのは嫌なんじゃないか、と思ったかららしい。不必要な会話に誘われることもなかった。フラッシュバックさせないためか、「大丈夫か」などという心配を投げかけられることもなかった。でもおかしな沈黙が訪れないように、時折「あちぃな」とつぶやいていた。私はそれに頷いて、立ち止まり、彼を振り返った。目が合うと、彼は「さっさと歩けよ」と笑った。彼だって、そのたびに立ち止まっていたのだけれど。

 その後私を襲った彼らは警察に注意を受け、停学処分を喰らった。だが噂によれば、まだ私を付け狙っているらしかった。停学が明ければまた何かが起こる。誰もがそう思った。でも何も起こらなかった。米屋くんが私の隣にいるようになったからであった。
 彼は最初、「奇遇だな」と言いながら私と下校を共にした。大抵私が一人のときであった。それはやがて偶然ではなくなった。彼は堂々と三年の廊下で私を待ち伏せ、昼休みも私の教室に足を運んだ。近くに米屋くんがいることが当たり前になると、もう誰もそういう目で私を見なくなった。彼は同学年からも一目置かれる存在だったらしい。何となくだが、一目置きたくなる気持ちはわかる気がした。
 相変わらず男の人は苦手なままだった。でも米屋くんだけは大丈夫になった。自分を助けてくれた相手だからなのだろうが、何より彼は優しかったし、話しやすかった。彼の接し方や気遣いはわざとらしいものではなかった。だから心地よかった。私は米屋くんとなら、手だって繋いだ。繋げた、と言ったほうがいいだろうか。付き合ってもいない男女が手を繋ぐ必要性があるのかは、不明だったけれど。

 いつの間にか彼は私を名前で呼ぶようになり、私も彼を陽介くんと呼ぶようになった。彼はあまり私を年上として扱わなかった。まあたった一つしか違わないので、当然と言えば当然なのかもしれない。どうせ十年後くらいには、私たちはほとんど同じ生き物になる。十四歳と十五歳は全く違うように思えるが、二十四歳と二十五歳の違いなど何もない。そういうものだ。

 私はそのとき彼の部屋で進路希望調査を記入していた。陽介くんは漫画を読んでいたが、用紙に目を通すと、おもむろに漫画を閉じた。キリのいいところまで読んだのだろう。
「やっぱ女子校なんだな」
 彼はベッドの上に腰を下ろしながら、私の肩に顎を乗せた。こんなところまで顔を近づけられても、私は臆することがなくなった。彼は人と話すとき、不用意に顔を近づけるのだ。嫌でも慣れる。
「うん。中学はお父さんが共学にしろって言ったからだめだったけど」
「へぇーまあおまえにとっちゃそっちのほうがいいだろうな」
 陽介くんは首を鳴らし、大きなあくびをした。私は彼の座椅子に座りながら、彼のベッドに軽くもたれた。私の周りは彼で溢れているのだ。
「でもそしたら、オレら全然会えなくなるな」
「え?」
「だってオレは女子校入れねーだろ」
 陽介くんの尖った黒髪が、ちくちくと首元に刺さる。彼は平然としていたが、私はごくりと唾を飲み込んでいた。
「……陽介くんは、行きたい高校あるの?」
「オレの学力で行けるとこなんて限られてんだろ。あぁでも、ボーダーと提携してるとこのほうが色々都合はよさそう」
「ボーダー?」
 予期せぬワードが出てきたため、私の声はわずかに上ずってしまった。彼は特に表情を変えずに、あぐらをかいた。
「そ。ボーダー入ろっかなって思ってて。まぁすぐにじゃねーけど」
「……そ、うなんだ。はじめて聞いた」
「だってはじめて言ったし」
 彼はあっけらかんとしていて、私は大いなるショックを受けていた。非現実的な告白ではないにしろ、それは私の世界からひどく遠い話のように聞こえた。私は途端にセンチメンタルな気持ちになった。
 もしも彼がボーダーに入って、私が女子校に行ってしまえば。そうなれば、会う回数はぐんと減るだろう。ゼロに等しくなるかもしれない。彼の中の私は、「昔助けた年上の女」程度で留まり続け、いずれその記憶も薄くなってしまうかもしれない。ぶちまけた絵の具の中に豪雨が降り落ちるように。
 私は膝に手を置いて、じっとしていた。志望校の名は途中までしか書けていなかった。
「名前も一緒に入る?」
「え?」
「ボーダー。そしたら高校違くても会えるぜ」
 彼は私の肩に手をまわしながらそう言った。私は左胸を抑えた。思いがけない提案に動揺したのか、彼自身にときめいたのかはわからない。
「でも私、運動神経とか悪いし……」
「戦闘しなきゃいいじゃん。サポート側につくとかさ」
「そういうのも、あるの?」
「聞いた話だとな。それだったら男との絡みも少ないんじゃね? 知らねーけど」
 私は握っていたペンを机の上に置き、彼を見た。陽介くんの顔は目と鼻の先にあった。これはいつもだ。常に彼は私の一番近くにいるのだ。
「よ、陽介くんは……高校行っても私と会いたい?」
 そう尋ねたあとで、試すようなことを言ってしまったと思った。また、それに対してどんな答えを求めていたのだろうとも。彼はわずかに眉を動かしただけで、あまり動揺を見せなかった。目くらい見開いてくれればいいのに、と私は思う。
「聞き方ずりーな。こっちは誘ってるだけだぜ?」
「……ご、ごめん」
「それに離れたくないのはおまえのほうだろ」
 彼の息が耳にかかり、私は慄いた。それは狙ってやったというよりかは、自然現象のようであった。あまりにも近くにいたから仕方なく起きてしまった、そんな現象。彼が起こす事象は全て彼の意思と関係しているはずなのに、あたかも無関係のように見える。それがすごく不思議だ。
「離れたくないって言ったらキスしてやるよ」
 陽介くんは私の肩を掴んでそう言った。私が求めていた言葉は与えられなかった。しかし私が彼の望みを叶えれば、私の望みも叶うらしい。理想的なギブアンドテイクが成立しかけている。
 私は縋りつくように、小さくそのつぶやきをこぼした。彼は一度口角を上げ、私をベッドに押し倒した。私の頭が漫画を下敷きにしたが、彼は特に気にしていなかった。まあ漫画なんて、綺麗に飾っておくためのものではないのだけれど。
 それから彼は私の髪を撫で、頬に触れ、短いキスをした。短いキスをしたあとは、深いキスもした。そのまま服も脱がされた。一体どこまでするのだろう、と私は思った。この行為の、どこに終わりがあるのだろうと。でも結局、私たちは最後までした。「最後まで」したのだ。彼が挿れて、出すまで。
 細かいことはあまり覚えていない。でも彼が私の胸を見て「結構でかいじゃん。やりー」と年相応の少年らしく笑ったことは覚えている。そんなこと、早く忘れてしまってもよかったと思う。
 私はそのあと消しゴムで進路希望調査の用紙を擦り続けた。擦りすぎたせいで、最終的に紙が破けてしまった。陽介くんはそれを見て「熱烈だな〜」と笑った。
 愛されている側のセリフである。

22.0711
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