規定の位置から大幅にずれたシーツ。ぐしゃぐしゃになった毛布。北に追いやられた枕。まるで戦後の跡地のようなベッドの上で、私は男の頬に保冷剤をあてていた。
「殴られたり蹴られたりするほうがまだマシだ。あいつは猫か?」
 荒船くんは小さく舌を打ちながらそう言った。まるで本当に戦争でもあったようなセリフだ、と私は思う。彼は恨めしそうに一人の男に視線をやった。男はだらしなく寝転んでいる。髪はいつにも増してボサボサだ。荒船くんの悪態が聞こえたのか、彼もわずかに顔を上げる。
「先に蹴ってきたのはそっちだろうが」
「それはカゲが邪魔してきたからだろ」
「普通にみぞおち入ってたわ。あーいてぇいてぇ」
 カゲくんはわざとらしく腹部をさすり、呑気にあくびをした。冗談なのだろうか。でももし本当にみぞおちに入ってしまったなら大変だ。私は荒船くんの頬からわずかに手を浮かせ、身体をカゲくんのほうへ向けた。
 すると、荒船くんは私の手を掴んだ。彼は私の手を自身の頬に押さえつけていた。間には保冷剤というクッションが存在しているが、彼の熱は充分伝わる。
「離すと痛い」
「あ……ごめん。でもカゲくんもお腹、」
「大丈夫だ。そこまで強く蹴ってない」
「あ? 荒船てめー心配されたいからって適当言うなや」
 カゲくんの指摘に対し、荒船くんは目を細めた。まったく、次は冷戦でも始めるつもりだろうか。私はため息をつく。

 三人でするようになったきっかけは実にくだらなかった。
 私の家でゲームをしているときに、突然カゲくんが私の首に噛みついてきたのだ。一体何事だと驚いていると、「首が白かったから」という意味不明な回答が返ってきた。横にいた荒船くんもさすがによくないとカゲくんにいくつか小言を告げた。しかしカゲくんは「荒船はこいつが好きだから嫌なだけだろ」と耳をかいただけだった。そのことで荒船くんは一気に眉をひそめた。「あ?」とかドスの効いた声も発していたと思う。それからカゲくんが私を押し倒して「嫌なら止めてみろよ」と彼を煽り、無事に煽られた荒船くんがカゲくんを押しのけて私にキスをした。
 男の子の張り合いって、本当にくだらない。
 
 とは言え、荒船くんとカゲくんはとても仲がいい。普段揉めることは滅多にない。それはひとえに荒船くんの性格のおかげだと思う。
 荒船くんは優しいし、非常に穏やかな人だ。他人の悪口を言うこともないし、嫌なことを言われても軽く受け流している。勉強をしているときも、お好み焼きを焼くときも、彼は人を気遣うことが多い。言わば大人なのだ。だからカゲくんともうまくやっているのだと思う。
 しかし、荒船くんは時折(本当に時折)頭に血がのぼると手や足が出る。言葉は出ないが、手や足が出るのだ。

 随分前の話だ。私は荒船くんとの待ち合わせ中に、男の人から声をかけられた。どこか遊びに行かないかとか、その程度のことだった思う。するとのちに現れた荒船くんが、すごい顔をしながらその男の腕を掴んだのだ。その際、ポキっという嫌な音がしたことはよく覚えている。当然荒船くんの骨は無事である。彼の骨は非常に丈夫そうだ。怯えて逃げ去った男の後ろ姿を眺めながら、荒船くんは「何だあいつ」と悪態をついた。その人相は少なくとも進学校の生徒には見えなかった。どちらかと言えば手に負えないゴロツキに近かった。

 今日も今日とて、その争うようなセックスは行われていた。事の発端は、私の上に跨っている荒船くんを、カゲくんが「なげえ」と退かそうとしたところからである。それに苛立った荒船くんがカゲくんの腹部を蹴飛ばし、その仕返しにカゲくんが荒船くんの頬を引っ掻いた。まさしく負のループである。
 最中は何も言わなかったものの、終わったあと荒船くんは「いてえ」と頬をさすりだした。確かにそこには二本の赤い引っかき傷が残っていた。私は慌てて冷凍庫から保冷剤を取り出して彼の頬に当てた。

「そもそも冷やすくらい自分でやらせろよ」
 不満げにそう言うと、カゲくんは私の腕を引いた。私は「わっ」と声をあげてシーツの上に倒れ込む。溶けた保冷剤が宙に浮いて、荒船くんの鞄の中に落ちる。ナイスシュート、と私は思う。何もナイスじゃないけれど。
 カゲくんは私の手をとって自身のみぞおちをなぞらせた。血が出ているわけではないので、別に撫でたところで症状がよくなるわけではない。
 荒船くんは鞄の中に落ちた保冷剤をテーブルの上に置いた。それから気に入らなさそうな顔で私の上に覆いかぶさった。ずっしりとした身体がのしかかると、少しだけ息が苦しくなる。
 彼は私を見下ろして、やがて首元に手を伸ばした。
「お前、ここどうした?」
「え?」
「首、歯型ついてるぞ。少し血も出てる」
「あ、それは……」
「おいカゲ、お前また噛んだだろ。首はやめろって言っただろ。痛いんだから」
 隣に寝転ぶカゲくんを、荒船くんは諭した。まるで凶暴な虎をしつけるように。
「はぁ? 何言ってんだお前」
 それに対し、カゲくんは思いきり唇を曲げた。荒船くんは再び顔をしかめる。反抗されたと思ったのだろう。しかし誤解だ。全て、誤解である。
「あ、荒船くん、違うよ」
「何が違うんだ」
「首噛んだのは荒船くんだよ」
「え」
「カゲくんはこっちだから」
 私は自身の太ももを指差した。そこには控えめな噛み跡が一つ残っている。血は出ていない。一滴も。
「ほれ見ろ。盛ってんのはてめーだ荒船」
「……その、いつ」
「私とカゲくんがキスしてるとき。荒船くん、時々噛むよね」
「……時々」
 今までも何度かあったが、どうやら自覚がなかったらしい。荒船くんは心底驚いた様子で冷や汗をかき始めていた。見るからに動揺する彼を見るのは初めてで、逆にこちらが申しわけなくなってしまう。
「で、でも別に痛くないよ」
「いや、痛いだろ」
 荒船くんはため息をつきながら、優しく私の首元を撫でた。それがあまりにもくすぐったくて、私は身をよじる。こっちのほうがよっぽど恥ずかしい。
「ほ、ほんとに、気にしないで」
「気にする」
「平気だから。痛いの嫌じゃないし」
 彼から逃れるため、そんな一言が咄嗟に出た。荒船くんは動きを止める。カゲくんは「へー」と言いながら私の腰を寄せる。もうみぞおちは痛まないらしい。痛んでいたこと自体、嘘だったのかもしれないけれど。
「初耳だわ。むしろ痛いほうがいいってか?」
「そんなこと言ってないよ……!」
「でも興奮してる奴もいるみたいだぜ。期待に応えてやれよ」
 カゲくんが顎で指し示した先には、口元を抑える荒船くんがいた。彼の瞳は夜の梟のように光っていた。
 先手を打つようにカゲくんが私の唇に噛みつくと、荒船くんが彼の腰を蹴飛ばした。それに対してカゲくんが彼の頬に爪を立てる。
 まさしく負のループである。本当にくだらない戦場だ。

22.0618
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