彼を評価する目は、きっと何個あっても足りない。

 太刀川慶という男は、大学の授業は滅多に来ない。来たとしても寝てるか、机の上に置いたスマホを操作しているかだ。一度彼の後ろの席に座ったときに見えたものは最近流行りのパズルゲームの画面だった。どう見ても真面目とは言えない彼だが、女子からは人気があった。駅で偶然彼を見かけた時は可愛い女の子と腕を組んでいたし、またある時は綺麗系の女の子と楽しそうにカフェでお茶をしていた。そして何よりも彼の特徴といえば、ボーダーに所属していることだった。普通の人間であればその名を聞けば目を輝かせる。太刀川慶という男は、そのボーダーの中でもトップの成績を誇るのだという。一般人の私でも凄い組織の凄い部隊の、一番上に君臨しているという才覚の持ち主だということはよく分かった。そんな彼と初めて会話をしたのは半年ほど前のことだ。

 新しくとった初回の授業で一番後ろの席に座り、呑気にパンを頬張っていると、前の席でうつ伏せになっていた男が上体を起こし、振り向いた。

「あれ、それ何?」

 顔を見てそれが太刀川慶だと気づいたときは驚いた。前にいた男が太刀川くんだったこと、彼が授業に来ていること、同じ授業をとっていたこと、私に話しかけてきたこと、それら全てにだ。有名人の貴方がこんなところで何をやっているんだという言葉を呑み込んで、彼が問いかけた内容を思い出す。思い出したが、よくわからない。それってなんだ。

「これは、近くのパン屋のカレーパンです」

 太刀川くんの質問の意味を精一杯探して自分が持っているパンのことだと解釈し、そう答えた。しかし彼は一瞬きょとんとした顔を見せると、まるで糸が切れたかのようにゲラゲラ笑いだした。

「いや、そんなのどうでもいいって。パンじゃなくて、それ。首のやつ」

 そう彼が指を指したのは私の鎖骨だった。いまいちハッキリ教えてくれない太刀川くんの言葉が理解できず、鞄の中から鏡を取り出して自分の首元を映すと、そこには、赤い痣のような痕。私があからさまに動揺しているのに気づいたのか太刀川くんは楽しそうにほくそ笑んだ。

「彼氏?」
「いや……これは、ちが、蚊に刺されで、あっ猫に引っかかれて……!」

 自分で言って、もう無駄だと思った。よく知ってはいるが初めて話した男の子にこんなことを気づかされ、指摘されて顔から火が出そうだ。今すぐ家に帰って胸元の少しあいた服を脱ぎ捨ててタートルネックを着たい気分になった。ひたすらその痕を手で押さえ俯いていると、太刀川くんが口を開いた。

「普通さ、そんな目立つとこにつけるか? 名字の彼氏って誰。つーかお前もつけられたこと覚えてないくらい夢中になってたんだ。んな真面目そーな顔して」

 彼の軽薄な、煽るようなその言葉にますます身体は熱くなるが、それ以上に私の名前を彼が知っていることが驚きだった。接点はなかったはず。私が一方的に知っているだけで、それは彼が有名だからで。私を知りえる人物なんてこの大学、数える程度しかいないはずなのに。

「太刀川く、なんで私のこと知って……」
「えぇ? じゃあ何でお前も俺のこと知ってんだよ?」
「それは、当たり前っていうか……」
「ふぅん。じゃあ俺も当たり前」

 すると彼はポケットからスマートフォンを取り出して操作し始めた。いつか見たときとはカバーが変わっていて、モノトーンのそれは彼の雰囲気に何となくぴったりだと思った。結局私を知っている理由は教えてくれなかったが、彼は私に連絡先を教えてほしいと言ってきた。まさか、知りたければこっちで聞けと言うことであろうか。いや、さすがにそこまでまどろっこしいことはしないだろうし、私もそこまで気になるわけではない。果たして自分の携帯に表示された太刀川慶という名前と、その隣の電話番号はこの先見ることがあるのだろうかと、疑問を抱いた。



 程なくして太刀川くんから連絡があったのは彼氏と別れた次の日のことだった。あんな目立つところにキスマークをつけられる間柄だったはずなのにお互い何となく冷め始めて、二人で遊園地に行って楽しくないと思ってしまったのがきっかけだった。別に傷心するわけでも後悔するわけでもなく、まぁいっかという感じだった。けれどやはり一人でいることに慣れていなかった私は寂しかったのか一回話したきりの太刀川くんの誘いを二つ返事で了承してしまった。

「あ、今日はついてない」

 私を見るや否や、首元を指さしてそんなことを言った彼に少しムッとすると、太刀川くんはニヤニヤと口角を上げた。

「別れたんだって?」

 何で知ってるの、そう言おうと思ったが、この間の太刀川くんとの会話を思い出してやめた。きっと彼はあの時のように適当にかわすだけだ。
 太刀川くんと飲むのは初めてではあったが楽しかった。ボーダーの話を聞くのは新鮮だったし、彼の単位事情にほとほと呆れたながらも、こんな席では笑いしか込み上げてこない。私も私で何故か元カレのことなんか話したりして、きっと人恋しかったのかもしれない。

「でもあの時太刀川くんに指摘されたとき、ほんと恥ずかしかった」
「あぁあれね、」
「でもよく気づいたよね。今思えば結構薄かった気がするんだけど」
「……」
「太刀川くん?」
「……あれさ、俺もつけたい」

 私の話に段々と相槌だけが増えて、返事が短くなった彼はすっかり酔っぱらっているようだった。ほんのり赤くなった頬をこちらに向けて、ぼんやりと私を見つめる瞳は、心なしか熱い。聞き間違えでなければ、彼はとんでもないようなことを言った気がする。

「俺もつけたい。なぁ今夜、だめか?」

 繰り返し、同じことを言う。やっぱり聞き間違えなんかじゃない。彼は明らかに私を誘っている。でも確実に酔っぱらっている。本音なのか冗談なのかイマイチ心理が読めなくて半信半疑な気持ちがグラグラ揺れる。そうえば彼の評価は女癖があまりよくないということも聞いたような気がする。こうやって女子と飲んではその日に事を済ませてしまうことが多いのだろうか。

「だ、だめ」
「なんで」
「だって太刀川くんのこと、よく知らないし」
「俺有名なんだから知ってるだろ」
「そういうんじゃなくて、中身の話だよ。まだそんな話したこともないのに」

 私の言葉に彼はつまらなそうに舌打ちをした。自分でも顔が熱いのが分かる。こんなこと、初めてで。私は今まで所謂健全なお付き合いというものしかしてこなかったんだと思う。知り合って、恋をして、付き合って、愛し合う。常識的な恋愛の順序。そういうことを守ってきたつもりはないが、自分でもその順序が崩れてしまうのは何となく嫌だったのかもしれない。だから太刀川くんが言っているのは私にとっては想像もできない話。そういうことをするだけするなんて絶対無理。考えただけで恥ずかしい。全然知らない人、というか中途半端に知っている人に自分のあられもない姿を晒すなんて。

「じゃあ今から俺の話するから、そしたらいいか?」
「だから、そういう問題じゃないんだって」
「じゃあいつになったらいいんだよ」

 不貞腐れたように少し口を尖らせて、太刀川くんは苛々した口調で言った。何で私はこんなに急かされているのだろう。彼の中には知り合った女の子とそういう関係にならなければいけないというポリシーでもあるのだろうか。ばっさりと断ればいいものの、何故か私が悪いことをしているような態度をとる太刀川くんに困惑して何も言えず、ただ狼狽える。

「なぁ名字、ほんとにだめか?」

 彼の言葉は全てを見透かしているようだった。ほんとにだめか。太刀川くんの台詞を自分の頭で繰り返す。そして自分で自身に問いかける。正直、興味があった。順序を守った恋愛、正しい性関係、それ以外のものに。そして太刀川慶という男に。彼みたいな男がどうやって女を絆すのか。見られたくないという羞恥心が見てみたいという好奇心に変わる。質問に対し私が首を横に振ったのを合図に、彼は瞳の奥の炎を燃やして、大きな手で私の腕を掴んだ。



「太刀川く、あっ」
「あー……最高」

 そう言って彼は私の胸元にストンと頭を落とした。頬をすり寄せ、鎖骨を指先でなぞった。もうそこには何もないのに。

「また、そこにつけるの?」
「オイオイまたって。俺がお前につけんのは初めてだっつーの」

 あぁそうか、あの痕は彼と出会ったキッカケだったから何となくその後も首元を見るたび太刀川くんのことを思い出して、太刀川くんがつけたものだったような気がしてた。おかしな話だ。もしかしたらあの日から私は彼のことが気になっていたのかもしれない。彼はふう、と一息ついて優しくなぞったそこにおもむろに吸い付いた。

「いっ……」
「言っとくけど」

 少しの痛みに声をあげると、唇を離した彼は私を恍惚な眼差しで見つめ、おぞましい一言を言い放った。

「俺はこんなんじゃ全然満足しないぞ」

 欲望という文字は彼の為にあるのではないかと思ってしまうほど、彼の言葉は濡れていて、その気迫は猛獣のようだった。こんなにもたくさんの顔を持つ彼を評価する目は、やっぱり幾つあっても足りないんだと、これからすること、されることを思い浮かべ納得させられてしまった。

16.04??
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