MEMO






Fire and Rain


2023.09.26



私が呪術を好きになったきっかけは夏油くんで、最初から私にとって夏油くんは特別な存在でした。そこは一生揺るがないと思います。ただ、彼と同じくらいと言ってもいいほどに、五条悟のことが大好きでした。夏油くんを好きでいられたのは、夏油くんの辛い部分と向き合えたのは、五条悟の存在があったからでした。そのことを今回の展開を踏まえて実感しました。私のこの二人に対する「好き」のスタンスは、全くもって真逆だったのだと思います。
きっと夏油くんのことは「大切な人たちを愛するが故に離反という道を選び、敗れ、死を受け入れる」人物だから好きだった。そして五条悟のことは「大切な人を理解しきれなかったが故に教師の道を選び、前を向いて、生き続ける」人物だから好きだった。
だから「離反しない夏油くん」「生きている夏油くん」を受け入れられないのと同じように、もしくはそれ以上に「死んでしまった五条悟」のことは受け入れられないのだと思います。死んでしまったから好きじゃなくなったという話ではなく(それはあり得ないことです)、単純に現実だと思えないという話です。まだ嘘で、夢で、何かの間違いなんじゃないかと信じています。そうであるべきだとすら考えています。

一ページ目に大好きな男の子が二人並んでいて、いつかこの二人が(回想などで)話してる姿を見れたらいいなとは長らく考えていました。でも少なくともこれは私が一番見たくない(という言い方は違うような気もするのですが、それ以外に言葉が思い浮かびません)光景だったのでその瞬間から頭が真っ白になりました。今でもずっと真っ白のままです。読み終わってから目に映る景色全てが灰色に見えます。
最後まで読み終わったあと、何もかもが嫌でつらくて苦しくて怒りを覚えて、ずっとずっと泣いていました。目を閉じても悲しくて思い出してしまって、頭の中にあれらの光景が浮かんできて、涙が溢れて止まらなくて、どうしようもないです。ずっと頭がぐちゃぐちゃです。
私は今まで二次創作をする上でも呪術の世界と比較的しっかり向き合ってきたつもりです。その中で起こった出来事全てを飲み込んだ上で、受け入れた上で呪術と向き合っていました。
でも正直、それは五条悟がいたからできていたことなんだなと本誌を読んで気づきました。今は何も考えたくありません。何にも向き合いたくありません。この回を読んでから自分の書いた夢小説を読むと切ないものばかりで、胸が苦しくなって、何でこんなに切ない話ばかり書いたんだろう?と全てを消してしまいたい衝動に駆られました。正直、今は夢小説を読むことも辛いです。五条のセリフや描写を見るだけで、それがどんなものであろうと胸が張り裂けそうになります。昔のシーンを読み返して五条が笑っている姿を見るだけで涙が出てきて何もできなくなってしまいます。五条の姿を見るのが辛い。苦しいし、寂しい。

漫画としてどれだけ納得のいく展開だったとしても私は嫌だし悲しいです。百人中百人がこの展開に満足していたとしても、どうしてこんなことをするのかわからない。それが単純な疑問なのか、やるせなさ(全力で戦った上の結果ではあるので、失礼な言い方かもしれないです、ごめんなさい)なのかもわからないです。
(こんなことを言ってしまうと怒られると思うのですが)五条悟がこの世界に生きてさえいれば、私はたぶん全ての物事と向き合えたのだと思います。
どれだけ悲しいことがあっても、この人さえいれば何とかなると考えていたのだと思う。私が夏油くんを好きでいられたのも、彼の結末を受け入れられたのも、五条悟が生きていたからです。極論言ってしまえば、これまで起きた辛い出来事全て、五条悟という強者がこの世界に、こちら側にいてくれたから耐えられたのだと思います。だから正直、そういう存在がいなくなってしまった呪術に、私は今後苦しさしか覚えられないのだとも思う。それは自分にとってあまりにも酷な状況です。

私は呪術の仄暗い、割り切れない世界の中にある光が大好きで、少なくとも「鬱」というような表現はしたくない作品でした(もちろん今回の展開もそういう表現はしたくない)。命をかけて全力で戦い、自分じゃなくて何かのために生きるみんなのことが大好きだったから、そこで生まれてしまった死も受け止められたし、受け入れてきました。でもその中に五条悟だけは含まれていなかったのだと思う。それは三人が言うように五条が「生きるため何かをを守るために呪術を揮うわけでなく自分を満足させるために行使している人」だったからでしょうか。あるいはただ単純に、私にとって絶対的な存在だったからでしょうか。うまく答えが出てきません。

まだ読み返すことも出来なくて、信じられなくて、どうにか時間が巻き戻らないだろうか、救われないだろうか、ということしか考えられません。どんな非合理的なことが起こっても納得するから、元の姿でまた笑ってくれないかな、片手を上げてこちらに戻ってきてくれないかなと思わないわけにはいかないです。
「みんな大好きさ。寂しくはなかった」という言葉が、ずっとずっと頭の中に響いています。漫画として、あの四人の対話は一生忘れられないくらい美しく、尊いものでした。でも私は妄想であって欲しかったし、あるいは夢であってほしかった。あの世界から「まだこっちに来るのは早いよ」と言って夏油くんたちが五条の背中を押して現世に帰してくれる展開を待ち望んでいました。

五条悟は「僕を殺したのが時間や病じゃなくてよかった」と言っていたけど、私は時間や病だけでなく、誰からも殺されないでほしかった。そうであって然るべきだとすら思う。この展開が「おかしい」とは思わないけど、五条悟は死ぬべきではなかったと思う。だってこんなに優しくて一生懸命生きていて、誰もが死なないと確信するくらい強かったのに。まあそう考えている時点で「おかしい」と思っているように捉えられても仕方がないけど。

私は夏油くんのことが大好きです。だから夏油くんが昔と少しも変わらない姿で、話し方で、考え方で五条と接してくれているのをすごく嬉しく思いました。
そして、「死ぬときは独りだ」という五条の言葉に対して「いいじゃないかどっちだって」と軽い口調で返していたのが印象的というか、感動的でした。
夏油くんは、離反前の高専三年と百鬼夜行のときの行動から考えるに、やはり「独りで抱え込み」「独りで片付けてしまう」人だと思っていたんですね。実際そうだったと思います。
だから彼が「死ぬときくらいは隣に誰かがいたっていいだろう」と考えてくれていることが、言葉にできないのですが、この考えが聞けただけで、胸がいっぱいになりました。正直、展開が展開で五条について考えないわけにはいかないのですが、夏油くん推しとして今週の本誌は「私が見たかった夏油くん」の全てが見れて、その点は救われたような気持ちになりました。
そして同時に、最後のときに五条が真っ先に思い浮かべるのは「夏油傑」なんだと、そうなんだろうなと予測していたけれど、当然嬉しかったです。あの五条悟にとって夏油くんは本当に「たった一人の存在」だったんだなと改めて思えたから。
でもそれでもこんなシーンはやっぱり見たくなかったという所感を抱いてしまいます。そしてそんな自分がすごく嫌。なんで大好きな人たちが大好きな姿で話しているところを見るのを嫌だなんて思わないといけないんでしょう。

今まで作中であった死はどれも全て受け入れてきたのに、五条だけは受け入れられないなんて、と思われる方もいるかもしれないのですが、私はきっと口には出さないだけで「この人だけは」という気持ちでずっと読んでいたんでしょうね(すごく贔屓な感想になって本当に申し訳ないです)。
でもそこには単純な「好き」という気持ち以外にも理由があります。それは今までの五条の発言だったり、過去だったり、経験だったり、振る舞いだったりを踏まえて、そういう発想になっていたのでしょうね。そして五条を信じることが呪術を読むモチベーションにつながっていたのだと思う。
また、その「信じる」という気持ちは反転してはいけないもの、曲げられてはいけないものだったと思う。読者だけでなく、戦いを見ていた生徒や、仲間たちの心情も指しています。言うまでもないことですが、五条悟が裏切ったというわけではないです。ただ「これは違う気がする」「間違っている気がする」と首を振りたい気持ちでいっぱいなだけです。でも結局、そう考えるのも私が五条悟を好きだからなんでしょうか。わかりません。

「背中を叩いた中にお前がいれば満足だった」と五条が夏油くんに言ってくれたことが、あまりにも、あまりにも嬉しかったです。それに対して夏油くんが泣きながら笑っていて、信じ難いほど胸がいっぱいになって、大好きという気持ちが溢れて止まらなくなりました。
私としては最後新宿で「無理に決まってんだろ」と「君にならできるだろ」で終わらず、きちんと0巻で「僕の親友だよ」で終わることができたので、この二人の関係に対しては全く未練がなかったんです。
夏油くんには、突き放され、突き放してしまった親友に呪いの言葉なんて一つも吐かれずに、優しい親愛がこもった言葉をかけられて、笑って人生を終えられてよかったね、と思っています。そしてそれを、おそらくずっと伝えたかったことを夏油くん本人に伝えられて、五条に対してもよかったね、とずっと思っていました。
それだけでも充分だったのに「君が満足だったならそれでいい」という言葉に対して「お前がいれば満足だった」なんて言ってくれる五条の愛情深さには感涙するしかありませんでした。そしてそれを聞いた夏油くんの立場になって彼に感情移入すると、類い稀な喜びが湧いてきて、とんでもないくらいに幸せな気持ちになりました。五条悟にとって自分は必要な存在だったんだと夏油くんが知れたことは、私にとってもかけがえのない出来事でした。
元々二人のことが大好きで、これ以上ないというくらい好きなのに、もっともっと好きになれました。こんなに好きになれるのかと自分でも感服するくらいです。
私は五条が夏油くんを思う気持ち・いつもずっと大切に思ってくれていたことに心から感謝していて、そして五条のそういうどこまでも人間らしいところが大好きでした。夏油くんが好きだから五条を好きで、五条を好きだから夏油くんが好きでした。だからこの景色は何もかも「私が見たかったもの」であるはずなのに、やっぱり見たくなかったな。見たくなかった。そしてそう思ってしまう自分のエゴが嫌いで、本当に嫌です。嫌です。

こんな形になるなら、いっそ世界が終わったあとに五条が獄門疆から出て目覚める、という展開の方が私は納得できたのかもしれない(本当にごめんなさい)。
そんなとんでもないことを考えてしまうくらいには、苦しいし辛い、そして寂しいです。どうしてこんな展開にするんだろうという感情ばかりが全身を蝕んでいます。
もちろん「楽しかったな」と五条が言ってくれたことも宿儺に対して「申し訳なさを感じている」と言ったことも、全部全部かっこよくて、全てのコマから清々しさを感じて、眩しくて仕方がなかった。全てのセリフから潔さを感じ、宿儺の感情を汲み取って戦っていたことを思うと、涙がこぼれます。どうしてこんなにもこの人は愛に満ちていて、最後まで強くかっこよくいてくれるんでしょう。そして五条悟がそんな人でいてくれたからこそ、私がこんな気持ちになっているのは情けないし格好悪いんです。夏油くんが「君が満足したならよかった」と言っているのに、私だけ時間が止まっているみたいで、少しも前を向けなくて、我ながら見苦しいです。
五条悟は最初からずっとずっとかっこよかったです。かっこよかったし、優しかったし、みんなの憧れだった。あんなふうに全身全霊で戦ってくれて、感謝の気持ちを抱かないわけがない。頑張ってくれてありがとうと声をかけたい気持ちでいっぱいです。でもそれを言うのは、全てが終わって五条がこちらへ帰ってきたときだと思っていました。そうであって欲しかった。そうであるべきだったと思います。

「昔に戻りたいなら南へ」という文章を読んで、そしてこの回のタイトルが「南へ」だったことを鑑みれば、五条は本当はあの青い春の中に留まっていたかったのだろうな、「孤高」じゃなくて、ずっとみんなと、傑と「二人で最強」でいたかったのだろうなと思います。
でもそうならなかったから教師という道を選んでくれて、前を向いて歩き続けてくれた。そんな五条が好きでした。このタイトルの意味や五条の深層心理のことは私にはまだ分かりかねます。考えたくないだけなのかもしれません。
ただ青い春に留まっていたい、と五条悟が本心で思っていたとしても、そういう人間味のある部分ももちろん大好きです。五条悟が五条悟であるならば、私は彼がどんなことを考えていても、どんなことに思いを馳せていても大好きです。でも今のこの頭ではうまく思考が働きません。正直ここについて深く考えるにはまだ時間が必要です。そして時間が経ってもきちんと言語化できるかもわからないです。
どれだけ五条悟が笑っていても、たとえ本人が負けを受け入れていたとしても、私は受け入れられないです。たぶんこの軸の二次創作をすることも一生ないと思います。

正直読んでからずっと具合が悪くて、「苦しいけれどよかった」とは到底思えそうにないです。どうにかして生き返らないだろうか、何とかならないのだろうか、とそればかりです。まだ呪術の物語は続いていくわけですが、リタイアしたいくらいです。読むのをやめて、他のことに夢中になってこの辛さや苦しさから逃れたいです。忘れたいです。
ただ一つ、七海の「呪いが人を生かすこともある。呪術がそうであるように」というセリフが聞けたのは、私にとっては救いでした。このセリフが呪術という作品を表しているような気さえします。呪いと呪術、そして愛は一心同体だと思えました。この言葉を聞いて、「呪いと呪術に生かされていく」虎杖くんたちの未来を見たいと思いました。そしてそのためにこの漫画を最後まで見届けたい気持ちにもなりました。
実際、呪術という作品のことは一生好きで、そこで生きていた・生きているキャラクターみんなが大好きだから最後まで読むとは思います。でももう私は今まで読んできたような読み方はできない気がしてきました。
今までのように「苦しかったけれど、割り切れないけれど、呪術のそういう部分が好き」とは言えないような気がするんです。それは私が五条を好きだから抱く感情で、他のキャラクターを推している方にとっては傲慢だと捉えられても仕方がないです(だからこの感想を読んで不快に思われる方は多いと思います。本当にごめんなさい)。

ちょうど先月、私は夏油くんの長編を書き上げました(突然自分の夢小説の話をしてすいません)。その中で夏油くんが五条たちに「また会おう」と語りかけるシーンを最後に書いたのですが、私はそこに「ずっとずっと遠い未来で」という一文をつけ足しました。それは私にとっての願望というよりかは、明確な事実でした。明確な事実だったから、そういう文章を書いたんです。だから本当に、五条悟だけは死なないでほしかった。死ぬべきではなかった。普通に考えてそうじゃないですか。何で五条悟が死んでしまうのでしょう。

五条のことを見ていると、いつもジェームス・テイラーの「fire and rain」を思い出します(夏油くんの本の書き下ろしでも同タイトルの話を五条視点で書きました。8月に書いたものだったのですが、不本意ながら、こちらは本誌の五条と重なる部分が多々ありました)。
その歌にある「炎も雨も僕は見てきた(I've seen fire and I've seen rain)」という歌詞を耳にするたびに、私は五条のことを考えていました。炎も雨も僕は見てきた、の後は「それでも君にはまた会えると僕はいつも思っていた(But I always thought that I'd see you again)」という歌詞があります。私にとってその「僕」が五条で、「君」は五条が見送ってきた人々でした。だからその「君」の中に五条が加わる選択肢は私の中にはありませんでした。少なくとも、この物語が終わりを迎えるまでは絶対にありませんでした。

五条悟さえ生きていれば、(私個人の意見です)呪術は光の物語であるような気がしていました。五条悟は私たち読者にとって、生徒にとって、あの世界に生きる全ての人々にとって「何にも代え難い希望」だったのだと思う。こんなことになるなら、戦わないでほしかったとすら考えてしまいます。一生受け止められる気がしないです。
これから少しずつ、少しずつ何かが私の中で変わることもあるのでしょうか?そうすれば受け止められるのでしょうか?わかりません。とりあえず今は「私の中の何かが変わる」のを祈ることが最善策な気がします。そんな不明瞭な希望に縋りながら日々を過ごしてみます。
でも本当はそんな取り繕った希望ではなく、どんな理不尽な形でもいいから生き返ることだけを一番に望んでいます。たとえばそれがどんなに展開として納得のいかないものだとしても、死んでしまうよりずっといい。幼稚すぎることは重々承知していますが、それが本心です。
皆さんがそうであるように、私も五条悟のことが大好きでした。今もこれからもずっと大好きです。




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