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16

「すっごい楽しかった!」
「そりゃよかった」
「あー、でもこれ明日絶対筋肉痛だよ」
「これだけで? 運動不足すぎだろ」
「普通はあんな重いもの日常的に振り回さないから!」


何球打ったか分からないけれど、酷使した腕が重くなっていてあまり力が入らない。人が少なかったのもあってほぼ独り占めのような状態だったし、今日だけでかなりうまくなったと思う。
一也が予想以上に丁寧に教えてくれたおかげで何球かいい当たりもあって、私にもあの音を奏でられた。ボールが遠くへ飛んでいくのを見た時はつい興奮して声を上げちゃったよね。


「うまく当たるとスカッとするね」
「だろ? 試合で当たるピッチャーもバッセンの機械みたいだったらいいんだけどな」
「あはは、なにそれ。それはそれでつまんないって思うやつでしょ」
「あー、確かに」


バッティングセンターを後にして、二人並んで歩きだす。ただ話しているだけなのに楽しくて、ずっとこの時間が続けばいいと思ってしまうほどだった。だからだろうか。足取りは名残惜しむようにゆっくりになってしまっているけれど、一也は急かすこともなく歩調を合わせてくれている。嫌なことは嫌ってきっぱりと言うタイプだから、多分このままでも大丈夫なんだろう。
でも、一也も私と同じ気持ちだったら。私の何分の一でもいい。この時間を名残惜しく思ってくれていたら、すごく嬉しいんだけどなあ。


「もうすぐベンチ入りメンバー決まるんだよな」
「へえー。一年からも選ばれたりするの?」
「さあ、どうだろうな。三年は最後になるし、監督次第だよ」
「そっかぁ。夏だもんね」


楽しい時間ほど過ぎるのは速いもので、いつの間にか日も傾いてきている。夏だから夜が訪れるのが遅いような気がしてしまうけれど、時計を確認すれば十八時を優に超えていた。ゆっくりと歩いてきた道のりも、気づけばもう見慣れた土手道。真っ直ぐ進めば青道の寮。その手前で右に折れれば私の家だ。一也は寮生活だから夕飯の時間も決まっているだろうし、これ以上時間を引き延ばすのは迷惑になるだろう。つまり、夢心地の時間が終わるまであと僅かということだ。
ざり、ざりと靴が擦れる音を聞きながら何気なしに隣を見れば、なぜか一也が神妙な面持ちをしていたので首を傾げた。そういえばさっきから口数が少なかったけど、どうかしたのかな。部活の話が出たし、野球のことでも考えているんだろうか。


「どうかした?」
「え? あー……いや」


躊躇いがちに開かれた唇がきゅっと引き結ばれ、ちらりと私に向けられた視線はすぐに逸らされた。明らかに何かを言い淀むその仕草に不安が襲う。え、私なにか変なこと言ったっけ? 先ほどの会話を思い返してみても心当たりはなく、急に変化した態度に戸惑うばかりだ。
後頭部に手を当てながら「あー」と唸るように声を発した一也は、とうとうぴたりと歩みを止めた。不自然に止められたそれに倣い、私もまた足を止める。


「ちょっとだけ、いいか?」
「……うん」


ぐるぐると胸の中に渦巻く不安を抱えながら、一也が指し示した先――下へと降りる階段へ足を掛けた。歩道から外れたそこは人通りもなく、降り立った途端、私たち二人だけが切り離されたような錯覚を覚える。
私の方へ向き直った一也は、先ほどとは打って変わって真っ直ぐに視線を向けてきて。その鳶色の瞳に合わせるために顎を上げたけれど、後ろから差し込む西日と一也が重なってしまい、きらきらと眩しくて思わず目を細めた。


「今更だけど……あの時は、ありがとな」
「なに……? 急に、どうしたの?」
「楓には色々世話になったし、本当に助かった」
「そんな……」
「楓が居なかったら、俺、今ここに居たか分かんねぇし」


そんなことないよ。と言うために口を開いたけれど、一也がまた、あのふわりと優しい笑みを浮かべたから。鳶色の瞳が柔らかく細められて私を見つめるから。言葉にならず、はくりと空気を震わせることしか出来なかった。


「だから、次は俺が力になりたい」
「……一也」
「まあ、あの時の楓みたいに経済力もねぇし、野球ばっかであんま時間も割けねーんだけど」


たはー、カッコ悪ぃ。脱力したようにそう呟いた一也を見て、無意識に強張っていた肩の力がすとんと抜ける。
私はあの時、自分が一也になにかしてあげられたとは思っていない。もっと一也を慮るべきだったと思うし、もっと力になれることはあったんじゃないかと思う。
たった七日。一緒に過ごした時間でいえばもっと短い。その中で、私が一也にしてあげられたことはほんの少しで、どちらかと言えばかけがえのない大切な時間をもらったのは私の方だ。


「……もう、充分だよ」


そして今。一也の存在に助けられているし、もう充分力になってもらってる。私の方こそ、一也が居なければ間違いなく今ここに居ることはないのだから。


「楓」


少し、硬い声。どこか緊張をはらむようなその声で改まって名前を呼ばれ、つられるようにシャンと背筋が伸びた。
また少し日が落ちたからか、今度は一也の顔がはっきりと見える。いつもの揶揄うような表情はなりを潜め、真剣な眼差しに射抜かれた。目は口ほどに物を言うとは良くいったもので、正にいま、一也の言わんとしていることを察してしまった。

――待って。その先の言葉はまだ、言わないで。
何度も何度も迷って悩んで、漸く決心したのに。この想いは一也に告げないって、そう決めたのに。捨てることなんて出来なかった気持ちだからこそ、一也から言われたら、まず振り切れない。揺らいじゃうよ。


「――好きだ」
「っ、!」
「一緒に過ごしたあの時から、ずっと好きだった」


そんな私の願いは届かず、真っ直ぐな言葉が突き刺さった。どくりと心臓が震え、呼吸が止まる。
本当は今日、何度ももしかしたらって思った。私を見る一也の瞳が優しくて、表情だって柔らかくて楽しそうに笑ってくれるから。もしかして、私と同じ気持ちを持ってくれてるんじゃないかって思ったの。
あの時も、きっとそうだった。口には出さなかったけどお互いに同じ想いを抱いていた。でも、前触れもなく終わりを迎えた時の、あの喪失感は今でも忘れることができない。それなのに、もし想いを通わせてしまったら? また同じ現象が起きれば、きっと私の存在は消えてしまう。そうしたら、残された一也はどうするの?


「楓」


ぐるぐると思考を巡らせるばかりで答えを出せない私を見かねたのか、爪痕が残るくらい強く握りしめていた手をそっと取られた。そうしたら今度は包み込むような柔らかな声音で私の名前を呼ぶから、導かれるように俯いていた顔を上げる。


「……好き」


ぽろり、と言葉が舌を滑っていったのは殆ど無意識だった。ずっと押し留めていた想いが一也の顔を見た瞬間、ぶわりと溢れてしまったようにこぼれ落ちたのだ。


「……私も好き。だけど、ダメだよ」


けれど、すぐに我に返って口を噤む。
好きだけど、ダメなんだ。ずっとこの気持ちを戒めてきた一番の理由は、松浦楓は私であって私じゃないから。この体を一方的に奪っておいて、好き勝手するわけにはいかない。私が居なくなった後は、きっと元の松浦楓へと戻るはずなのだから。
ダメだって分かってる。分かってるのに……どうしようもなく嬉しい。温かいこの手を振り払うことが出来ないのは私の弱さであり、捨てきれない願望なんだ。


「俺だって、怖ぇよ」


重なった手を強く握られたと同時に一也の口から発せられた言葉。思わず目を瞠ったのは、あの頃、あの状況下に置いて一度も弱音を吐かなかった一也が、まさか怖いだなんて口にするとは思わなかったからだ。
でも、だからこそその言葉がすとんと胸の中に落ちてきた。私だけじゃない、一也も同じなんだって。不安なのも怖いのも、全部一緒なんだ。
好きだけど、好きな気持ちを突き通すには色々な壁や柵がある。一人ではその高さに太刀打ちできず諦めてしまっていたけれど、二人でなら――乗り越えられるだろうか。


「……いいのかな」
「ん?」
「私、わがままになってもいいのかなぁ」


そう思うと、熱をもった雫が勢いよく頬を伝い落ちていった。一度決壊してしまった涙腺は堰き止められず、次から次へと涙が溢れていく。ぼんやりと滲む視界をなんとかしようと未だ掴まれたままの手を引けば、逆に一也の方へと勢いよく引っ張られた。


「先のことは分かんねぇ。けど、俺はもう後悔したくない」


夏の夕暮れよりもあつい体温に包み込まれ、くぐもった声が鼓膜を揺らす。視界は一也のシャツに埋め尽くされて、溢れる涙がシャツにみるみる吸い込まれていった。私、一也に抱き締められてるんだ。そう理解すると、一気に血液が全身を巡ったみたいに体が熱くなっていく。
すっぽりと包み込むような逞しい腕の中はドキドキするし緊張するけれど、一也の鼓動を感じながら体温が溶け合っていくのを感じると、なんだか安心感を覚えた。まるで私の居場所はここなんだって言われてるみたいで、存在を許してもらえた気がしたんだ。


「……うん」


ゆっくりと手を一也の背中へ回したら、もうダメだった。一度この温もりを受け入れてしまえばもう、手放すことなんて出来そうにない。


「一也、ありがとう」
「それは……どういう意味のやつ?」
「同じ気持ちで嬉しい。これからは……恋人としてよろしく、って意味かな」


どちらからともなく抱きしめる腕を緩めながら視線を合わせ、照れたように笑い合う。
この先どうなるかなんて分からない。でも、未来を想像して嘆くより、後悔のないように今を過ごしてみようと思えた。多分また同じことで悩んでしまうけれど、その時は今日のことを思い出そう。一也と一緒なら、きっと大丈夫だ。
赤く染まった空と一也の表情を目に焼き付けながら、差し出された手を強く握った。

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