彼と目が合うと、心臓が鷲掴みにされたようにきゅっとなる。笑顔を向けられてもうまく返せずに口角が引きつって、声を掛けられれば喉が窄まり言葉に詰まった。けれど、これらは決して恋からくるものじゃない。むしろその逆で、私は彼――犬飼澄晴のことが苦手なのだ。
始まりはいつからだっただろうか。これといったきっかけは無かったように思う。犬飼くんとわたしは同じ学校で同じ学年。加えてボーダー所属なので関わりも多く、去年までは顔を合わせれば話をしていた。一緒に勉強したこともあるし、ご飯を食べに行ったこともある。結構仲が良いと思っていたのだけれど、どうやらそれはわたしだけだったらしい。
少しずつ少しずつ、彼の態度は変わっていった。にこりと向けられる笑顔は他の子に対するものと違ってどこか冷たさを含んだもの。声を掛けても素っ気なく返事も端的で、初めは戸惑った。
――これは本当に犬飼くんなんだろうか。トリオン体で感情制御のオプションでも付けているのだろうか。そんなことを思うくらいにはわたしの知っている彼と乖離していたのだ。
「あっ、悪いけどこれ犬飼に渡しといてくれる?」
「え? そこにいるじゃん」
「ワリー、ちょっと急いでて。よろしくな!」
渡されたノートに罪はない。けれど、何かと頼みごとをされやすい廊下側の自席を少しだけ恨みながら振り返れば、会話が聞こえていたのだろうか。こちらを見ていた犬飼くんとばちりと視線が交わり、無意識に腰が引けてしまった。
「犬飼くん、これ……」
「ああ。ありがと」
口元は笑っているけど、目は笑っていないし、声音はどこか冷ややかだ。それを目の当たりにすると、無理矢理持ち上げていた口角がひくりと引きつった。
最初に犬飼くんの態度に気が付いた時、知らないうちに怒らせてしまったのかと考えた。けれど、本人や周りにそれとなく探りをいれても理由は分からずお手上げ。一過性のものかと思いきや今日現在に至るまで引きずり続けている。
わたしは犬飼くんに嫌われているのかもしれない。そう結論づけるのには充分だったが、一概に言えない理由もあった。
「今日は任務?」
「あ、うん」
「おれもなんだよね」
「……そうなんだ」
ノートはもう彼に渡ったのに、なぜかわたしの前に立ったまま動こうとはしない犬飼くん。相変わらず声に温もりは感じられないが、続けられる会話に戸惑いつつも言葉を返していく。
――そう、こういうところだ。わたしのことが嫌いなら必要以上に話しかけないはず。避けて然るべきなのに、顔を合わせれば前と同じように話しかけられるし、すれ違えば呼び止められる。それなのにやっぱり態度は冷たいままなのだ。嫌いなら放っておいてくれればいいのに、矛盾する彼の態度に戸惑いを隠せなくて、苦手意識ばかりどんどん募っていく。
「本部まで一緒に行く?」
「えっ!?」
「今日何時から?」
「え? えっと、あの……ちょっと用事があるから済ませてから行こうと思ってて」
「……ふぅん?」
びっくりした。予想外の一言に一瞬頭が真っ白になって考えていたことが全部飛んで行ってしまった。以前ならまだしも、今犬飼くんと二人でボーダー本部まで行くというのは正直ちょっと気が向かない。もっともらしい理由をつけてやんわりと拒否しながらも、怒らせていないだろうかと犬飼くんの様子を窺えば、何か考えるように視線を彷徨わせたあと、口元の笑みを深くするのが見えた。瞳の冷ややかさを除けばそれはそれは楽しそうに笑う顔を見ただけで、じわりと嫌な予感が胸の奥へ広がっていく。
「じゃあ終わったころに連絡してよ」
「えっ? いや、でも……」
「おれ、今日は夜の任務だから時間に余裕あるし」
ね? と言葉を重ねられ、ごくりと息をのむ。なんだろう、この笑顔の威圧感。まさか拒否なんてしないよね? と言われているみたいだ。もしも今トリオン体だったら全速力で駆け抜けて逃げていたことだろう。けれど残念ながら今は生身。犬飼くんの運動能力には適わないのでそんなこと出来るはずもなく、こくりと首を縦に動かすので精一杯だった。
「いや、どうするの……」
ぽつりと呟いた声は、放課後の誰もいない図書室に思いのほか響き渡る。何も予定なんてないくせに用事があると言ってしまった手前、彼の目に届かない場所で時間を潰すことを余儀なくされていた。体のいい断り文句のはずだったのに、まさかこんな展開になるとは。この後のことを思うと頭を抱えたくなるが、いつまでもこうしている訳にはいかない。
「もうそろそろだよね」
スマホで時間を確認して、ひとつため息。ぐるぐると悩んでいる間に随分と時間が経ってしまっていたらしい。こくりと息を飲み込むことで気持ちを切り替えて、メッセージ画面を立ち上げた。緩慢な動作で一文字一文字打っていき、半ば投げやりに送信する。実はもう帰っているとかないだろうか、なんて期待してみるけれど、無情にも返ってきたのは昇降口で待っているというものだった。
鞄を手に持ち、がたりと椅子を鳴らして立ち上がる。どくんどくんと大きくなり始める心音を聞きながら、犬飼くんの待つ場所へと足を進めた。
「……お待たせ」
「お疲れ様。行こうか?」
「うん」
作ったような笑みで迎えられ、そのまま肩を並べて歩き出す。気の利いた会話なんて思い浮かばなくて、犬飼くんもまた何も話さない。一緒に行く意味を見いだせないまま無言で足を進めていく。
ちっとも楽しそうじゃないし、なんで誘ってくれたんだろう。無表情に近いその顔からは感情が読み取れなくて、居心地の悪さが増していった。それだけならまだしも、この空気に緊張感まで増していって、右、左と交互に出せばいいだけの歩行という単純な動作さえ覚束なくなる。真横の犬飼くんを意識しすぎて体の右半分が固まってしまったみたいだ。
「――意識してる?」
「え……?」
「高宮ちゃん、意識してるでしょ」
どくり。久しぶりに呼ばれた名前に心臓が鳴る。咄嗟に彼を見上げると、透き通るような彼の瞳が全部見透かすみたいに私を映していた。
吸い込まれてしまいそうな瞳に気を取られたからか、少しの段差につま先が引っかかってしまってぐらりと体勢が崩れる。――転ぶ、と反射的に前に出した手にズザッとアスファルトが擦れた。
「いっ、た」
「大丈夫?」
「……うん」
思い切り転けることは免れたけれど、手のひらの薄皮がところどころ擦りむけてじわじわと血が滲み出てくる。痛い。恥ずかしい。そう思うのに、直前に言われた言葉が頭の中に蔓延っていて、正直それどころじゃなかった。
「ほんと、分かりやすいなぁ」
「……え?」
「おれのせいでしょ?」
なにやってるの? と、いつものように冷たい声が掛けられるかと思ったが、彼の口から出てきたのはやさしい声だった。まるで以前の犬飼くんに戻ったようなそれに目を皿にしたまま彼を見れば、呆れ顔で笑っていた。
「ほら、見せて」
「あの……」
「ちょっと血が出てるね。後でちゃんと洗ったほうがいいよ」
「うん、あの……さっきのって」
転けたその場所に立ち尽くしたまま動くことができない。本部に近いここは閑散としていて人通りもなく、ちいさな声でもよく響いた。
戸惑うわたしに気づいた犬飼くんは「ああ、あれね」と相槌をうち、言葉を探すように視線をさ迷わせる。彼にしては珍しい仕草に、何を言われるのかと身構えた。
「意識してもらうにはどうしたらいいかずっと考えてたんだよね」
「どういう、こと?」
「友達のままじゃ、おれが嫌だったから」
「え、と……ごめん、意味がよく」
「好きなんだ」
「えっ?」
思いもよらない言葉に呆然としてしまう。からかっているのかもしれないと思ったけれど、犬飼くんの熱を帯びた瞳がその考えを打ち消した。
やっとだ、と呟いた彼の声に停止していた思考が急速に動き出す。待って、好きって、犬飼くんがわたしを? 今までの態度も全部、関係性を変えるためだってこと?
確かに意識はしていた。どきどきもした。けれどそれは苦手意識からで、明らかに恋とは別のものだ。そう頭の中でまとめると、からからに乾いた喉から言葉を絞り出す。
「えっと、わたし……優しいひとが好きだから」
「えー? おれ、優しくない?」
「優しくはないと思う」
「ははっ、酷いなあ」
あ、笑った。作り笑いじゃなくて、声をあげるのと同時にきゅっと瞳が細められる。犬飼くんがちゃんと笑ったのを見たのはいつぶりだろうか。
「なら、これからはうんと優しくするよ」
「え?」
「充分意識はしてもらえたみたいだし、次は……ね」
「え、待って。わたしは」
「さて、そろそろ行こうか」
え? 今わたし、断らなかったっけ? 飄々と次に繋げようとする犬飼くんに首を傾げる。もしかして言葉足らずで伝わらなかったのかも。そう思ってもう一度伝えようとすれば、ひょいっとわたしの手首を掴んで歩き出してしまった。
「犬飼くんっ」
「ははっ。残念だけど、まだ振られてあげないよ」
本当に楽しそうにそんな台詞を言うものだから、もうなにも言えなくなってしまう。
やっぱり、犬飼くんは分からない。分からないから苦手だったのに、きっとこの苦手意識も次第に薄れていく気がする。そしてまた前みたいに――ううん、前以上に仲良くなれるのかも。そう思うとちょっと楽しみな自分もいて。これもすべて犬飼くんの思い通りなんだろうか。
ころころと彼の手のひらで転がされているようだけど、最後はどうなるのか。それすらも、彼が握っているのかもしれない。
プロット交換企画に参加させて頂きました!そして初書きの犬飼くんで提出するという無謀なことをしました笑
ブクマに企画サイト様をリンクさせて頂いているので、詳細はそちらからどうぞ。素敵なお話ばかりです!主催者様本当にありがとうこざいました!
write by 神無