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おさんぽ

鏡に映るのはだらしなく顔を緩ませた自分。ぺちんと両頬を軽く叩いても、すぐにゆるゆると口元がにやけてしまう。だって今日は待ちに待った米屋との初デートだ。
お気に入りの服を何着も並べて選び抜いた服を身にまとい、いつもはあまりしないメイクも早起きして朝から頑張った。靴はこの前一目ぼれして買った可愛くて動きやすい優れもの。どれもこれも全部今日のため。デートという単語を思い浮かべるだけで気持ちが高揚して、部屋に一人なのにへらりと締まりない顔になってしまう。昨日の夜なんて楽しみすぎてなかなか眠れなくて、遠足前の小学生かと自分で呆れてしまった程だ。


「いってきまーす」


天気は快晴。夏の終わりはもう近いというのに、じりじりと照らす太陽は容赦なく気温を上げ続けている。でも、そんなの今の私にはなんてこと無くて、足取りはふわふわと軽い。このままどこまでだって行けそうな気がするけど、今日の目的地は四塚市に新しくできた水族館なので、まずは最寄りの駅で米屋と待ち合わせだ。ああ、ダメだ。待ち合わせ、という何でもないシチュエーションにすらドキドキしてしまう。


「葵」
「あれ? よーすけ?」
「お前、後ろから見てて挙動不審だったぜ? てか、ここで会うなら待ち合わせするよりも迎えに行った方が良かったな」
「……うん」


後ろから掛けられた声は、ずっと頭の中を占めていた米屋のもの。自然と浮かんだ笑顔のまま振り向いたが、視界にその姿を捉えた瞬間、体の機能が停止してしまったかのようにぴたりと止まる。
数歩で追いついてきた米屋に話し掛けられているのは分かるが、瞬きすら忘れて見つめていたせいか生返事になってしまった。
もちろんそれに米屋が気づかないはずもなく、覗き込むように私の顔を見たかと思えば、眼前に迫ったオニキスの瞳がスッと細められる。


「なーに見とれてんだよ」
「えっ? ち、違うよ! 帽子、珍しいなって思ってただけ」
「ふーん? ま、いいけど」
「ホントだって!」
「はいはい」


見とれていたというよりか、見慣れなくて目を離せなかったというのが正しいかもしれない。今日の米屋はトレードマークともいえるカチューシャではなくキャップを被っていて、米屋だと分かっているのに米屋じゃないみたいで戸惑ってしまった。
肩を並べて歩いている今も気になってちらちらと視線を送ってしまう。私服を見るのも初めてだし、若干のヒールのおかげかいつもよりも顔の距離が近い。どきどきと高鳴る鼓動は抑えられそうになくて、始まりからこれで今日一日私の心臓は耐えられるのだろうかと余計な心配をしてしまう。
ふう、とコンクリートに向かって息を吐き出し気持ちを落ち着かせようと試みてみるが、残念ながら空振りに終わってしまった。ただ並んで歩いているだけ。会話という会話もそんなにしていないのに、ふつふつと高揚感が湧き上がってくるのが抑えられない。


「どうしよう、なんかもう既に楽しい」
「ははっ、マジか。まだ道歩いてるだけじゃん。あー、でもそっか。ワンコはお散歩好きだもんな」
「もうっ、犬扱いしないでよ」
「ほら。リードの代わりな」


付き合う前から何かと犬扱いしていた米屋だけど、それは彼女になっても相変わらずだ。私の反応を面白がっているだけだろうから反応しなければいいと分かってはいるが、目の前に差し出された手を無視する事なんてできそうになくて、飛びつくようにその手を握れば弾けるような笑い声が上がる。
米屋の手の上でころころと転がされている気がして少し面白くないけれど、楽しそうなのをみると全部許せてしまうから、きっとこれからもペット扱いは変わらないんだろう。付き合う前は女として見られていない気がして嫌だったけど、米屋の気持ちが分かった今ではそれも愛情表現なのかも。なんて都合よく考えて浮かれている自分もいるので、何だかんだ私も楽しんでいるのかもしれない。


「あれだよね? すごい、思ってたより大きい」
「おー、ホントだな。スゲーじゃん」
「絶対イルカショー見ようね」
「それ、絶対言うと思ったわ」
「いいじゃん。見たいもん」


電車を乗り継ぎ漸く見えてきた建物。まだ入ってもいないのにはしゃぐ私へ呆れた視線を向けながらも楽し気に笑う米屋を見て、きゅっと心臓が締め付けられるような、やわらかな痛みを感じた。
いつも唐突にやってくる、好きだという気持ち。米屋の言動や笑顔一つで感情が大きく振れてとぷりと溢れだしそうになる。抱き着きたい衝動を抑えるために繋いだ手に力を込めて前へ促すように引っ張ったが、これでは本当にペットと飼い主みたいだと気づいて、逸る歩みをぐっと堪えた。


「チケットあっちだって」
「ん。でも葵はコッチなー」
「え……? だって」
「知ってるか? チケットとか、今はフツーにコンビニとかで買えんだぜ」


するりと離された手を視線で追えば、長い指が財布の中から薄い紙きれを取り出した。会話の流れと米屋の表情からそれがチケットであることを推測するのは容易い。けれど、まさか事前に準備してくれているなんて思いもしなかった。私から言い出したことだけど、米屋も楽しみにしていてくれたんだろうか。そうだったら、すごく嬉しい。


「ってわけで、行くぞ」
「あーもう、ずるい。よーすけずるい」
「はあ? 何がずるいんだよ」
「だって今キュンとしたし……これ以上好きになったら困るんですけど」
「ぶはっ。なんだそれ、チョロすぎだろ」


笑いごとじゃないよ。まだ会ってから一時間くらいしか経っていないのに、何度心臓にダメージを受けたことか。米屋も私みたいに心臓を握り潰される気持ちを味わえば……って、私じゃ役不足か。


「どした? 入るぞ」
「あ、うん」


自分の考えに勝手にヘコんでいたが、ゲートを抜けて中に入るとそんな考えは一瞬で吹き飛んでしまった。
薄暗い照明の中に浮かび上がる大きな水槽。沢山の魚が連なって泳いでいるのがキラキラ輝いて見えて、思わず足を止めてしまう。


「すごい……きれい」
「口開いてんぞ」


一歩進む事に変わる景色に何度も目を奪われて、きれい、かわいいとばかみたいに同じ言葉を繰り返す私に米屋が笑う。
音楽が流れる中、イワシの大群が同じ動きで水槽の中を泳ぐ様はすごい迫力で思わず動画を撮ってしまったし、クラゲの水槽では照明のせいか発光しているように見えて幻想的で、しばらく前から動けなかった。ニシキアナゴやクマノミはすごくかわいくて沢山写真を撮った。実はこの時に何枚か米屋も一緒に映るように撮ったのだけど、これは内緒。
絶えない笑顔に尽きない会話。繋いだ手の気恥ずかしさはもうなく、自然と指を絡め合っていることに気が付いた時、じわりと幸福感がこみ上げてくる。


「ちょっと早いけど、イルカショー見るなら席取っといた方がいいんじゃね?」
「あっ、そうだね! ベストポジションで見たいもんね!」
「ははっ、どんだけだよ」


館内マップを見ながらイルカショーの場所へ行き、ちょうど真ん中あたりで腰を下ろす。ずっと歩いていたせいか、座るとホッと肩の力が抜けた。自覚はなかったけど、少し疲れていたみたいだ。


「あー、オレ何か食うもん買ってくるわ」
「分かった。じゃあ席取っとくね」


腹減ったー、とぼやきながら軽食の店へと向かう米屋の背中を見送った後、スマホを取り出してまだ何もないイルカショーの水槽を写す。アルバムの中には今日撮った写真が何枚もあり、一つ一つ表示させながら今日の事をゆっくり振り返っていた。


「あのー、ここ良いですか?」


だからだろうか。近寄ってきた気配に気づかず、声を掛けられたことで漸く顔を上げるが、そこに居たのは顔も知らない二人組。開始時間よりもだいぶ早いことから周りは閑散としていて、座る席は選びたい放題だ。どうしてわざわざ、と疑問に思いながらも波風を立てないように言葉を選びながらそっと首を振った。


「ごめんなさい。人が来るので……」
「おねーさんイルカ好きなの? ここのイルカショー有名だよね」
「はあ……そうですね」
「よく見える場所知ってるから移動しない?」
「いえ、ここで大丈夫なので」


あ、これナンパだ。と気づいた時には既に遅く、男二人は私を間に挟んで腰を下ろしてしまった。大学生くらいだろうか。毅然とした態度で断るべきだと分かってはいるけれど、のべつ幕無しに喋り続ける二人に口を挟む隙がなく、きゅっと身を縮ませて俯いてしまう。
心の中で米屋の名前を何度も呼ぶが、お店は少し離れた場所にあったしいつ戻ってくるか分からない。このままではだめだと「あの!」と声を上げた瞬間、待ち望んでいた声が後ろから掛けられた。


「すみませーん、そこ、オレの場所なんスけど」


二人組の視線が漸く私から外れ、傍に立つ米屋へと向けられる。よーすけ、と口からぽろりと漏れた声はほとんど吐息に近いちいさなもので、本人までは届かなかっただろう。なのに、帽子の影に隠れた瞳が私を捉えて、きゅっと顔が顰められた。


「どいてくれます?」
「……ツレって男かよ」


一触即発とまではいかないが、明らかにピリッと張り詰めた空気に大丈夫だろうかとハラハラする。もし喧嘩にでもなったら――と想像した瞬間、二人組が徐に席を立ち、心臓が嫌な音を立てた。


「しゃーねえ、行くか」
「おねーさんまたね。邪魔してごめんね」


けれど、私の心配は杞憂に終わり、あっさりと去っていく二人組。呆気に取られながらその背中を見ていると、大きめのため息とともに米屋が腰を下ろした。


「大丈夫か?」
「うん……ありがとう」
「戻ってきたら絡まれてっからビビったわ」


食う? と差し出されたポテトを反射でつまみながらも、まだ心臓はどきどきと先程の名残を残していて落ち着かない。米屋が隣に居てくれて安心できるはずなのに、肩に入った力を上手く抜けないでいた。
二人と対峙していた米屋は平然としているのに。やはりボーダーの最前線で戦っていると、このくらいでは動じないんだろうか。


「葵?」
「……うん?」
「あー……」


まだ落ち着いていないのを見抜かれたのか、下から覗き込むようにして名前を呼ばれたけど、中途半端な返事しか出来なかった。米屋と会ってからずっと楽しい気持ちでいたからか、その反動が大きい。
イルカショーさえ始まってしまえば、きっと今の出来事は忘れられるだろう。だから少しだけ待ってもらおうと伝えようとしたのに、なぜか米屋と視線が合わなかった。至近距離にも関わらず視線は私の向こう側へ投げられていて、何かを確かめるようにぐるりと動く。


「よーすけ?」


何かあるのかと名前を呼んだのと同時に、被っていたキャップを徐に外した米屋。中にしまわれていた髪の毛がはらりと落ちるのを目で追っていれば、顔の横にキャップがあてがわれて影ができる。
そう、まるで目隠しのように――。


「んっ!?」
「はい、アイツら記憶から抹消〜」


一瞬で距離を詰められて重ねられた柔らかい唇。すぐに離れてしまったけれど、温もりだけがずっと唇に残っているようで思わず口元を押さえた。
いくらキャップで隠したといえど後ろからは丸見えだ。人がいる場所でキスするなんてあり得ないと思いつつもちょっと嬉しいのは事実で、手で隠している口元がにやけてしまう。米屋の思うつぼなのか、その言葉通りさっきの事なんてどうでもよくなってしまった。


「もう、人がいるのに……」
「大丈夫だって。アイツら以外誰も見てねーよ」
「えっ」


じわじわとこみ上げる羞恥を隠すように指摘すれば、返ってきたのはしたり顔。そこで漸く先程の視線の行方を理解して、今度は頭を抱えたくなった。もう絶対に後ろを振り向けない。
当の本人は全く気にした様子もなくから揚げを頬張っているし。米屋らしいといえばそうだけど、振り回されてるなあ。もちろん、嫌ではないけれど。

今日の楽しい一日の中に一滴の墨汁を垂らされたような出来事だったが、今のキスと紐づけることでそれすらも最高の思い出に変わった。まだ今日は終わっていないけれど、初デートは大成功といってもいいだろう。
米屋のこと、もっと好きになったよ。なんて恥ずかしくて口に出しては言えないから、そばにある米屋の左腕に手を絡ませてぎゅっと力を込めた。




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