二人─6

 悲鳴しか聞こえない。どの方向へ耳を傾けても、聞こえるのは悲鳴ばかり。違いといえば仲間か動植物かの違いぐらいしかない。それらは決して途切れることなく、延々と彼女の耳を貫いた。

 どんなに耳を塞ごうとも聞こえてしまう。これが自然の恩寵の賜物だというのなら、余計な能力を与えてくれたものだと、訳もわからぬままに誰かへ怒鳴り散らしてやりたかった。

 怒鳴り散らしたところで状況が好転するわけでもない、そしてその恩寵が自身の体を守っているのもまた事実である。先刻から焦げ臭い匂いが強くなり、火の粉が雪のように舞って肌に触れはするものの、痛みを感じるよりも早く癒えてしまう。彼と会うまではこの治癒力すらも疎ましかった。

 彼、と呟いてみて彼女は赤々と燃える山を見つめた。ここは風下にあたる。そうでなくとも乾燥した木々は燃えるのに充分であろう。早くここから立ち去り、仲間と共に逃げなければならない。

 人間は常に自分達を拒絶する道を選ぶのだ。そして自分達は常に彼らから逃げる道を選ぶ。

 立ち向かい、あるいは対話しようなどという希望はとうに捨てていた。まともにやりあえば確実に自分達が勝つ自信はあっても、そうして手に入れた勝利の向こうには、この世界からの徹底的な廃絶が待っている。

 だから、逃げる。

──でも、彼なら。

 彼は自分の素性も既に察していることだろう。その上で話をしてくれた。

 だが、それすらもこちらを欺く演技だとしたら?

 彼女はふらりと木の幹に身を寄せ、こみあげてくる衝動を押さえた。細い指が力に任せて樹皮に食い込む。

 火は放たれた。これで樹木を一掃し、視界を良くするのだろう。そして燃やし尽くした後には狩りが始まる。これだけ大規模な狩りを彼が知らないはずがない。

──疑ってはいけない。

 暴走しそうになる思考を止め、彼女は唾を飲み込んだ。

 彼と会って話をするまでは、決して疑ってはいけない。人間の行った行為を恨むことはあっても、彼を恨んではいけないのだ。まだ、私は彼に会っていないし──名前も聞いていない。

──でも、どうしても。

 帯に差し込んだ短刀を取り出し、僅かに鞘を抜く。白刃が炎を受けて妖しくきらめいた。

 その光が彼女に深く根付く人間への憎悪を呼び覚ました時、不意に人影が飛び出し、彼女は鞘を抜き放って臍の辺りで構えた。

「……いた」

 おそろしく気の抜けた声が響く。その声をどんなに待ちわびたことか。

 太い木の根に足をかけていた彼は、泣きたいような笑いたいような顔で一気に駆け上がり、彼女の前に立つ。

「……狩りが、始まった。僕には止められない」

 沢山の煙を吸い込んだのだろう、声ががさついていた。ぼろぼろの姿にどこを歩いてきたのかと心配したくなるも彼のまとう人間臭さが彼女も予期しなかった言葉をつむぐ。

「仲間が何人も死んでいくのを見たし、声も聞いた。……あなたはさぞかし嬉しいでしょうね、うまくいけば死ねるもの」

 違う。

 言いたいのはそんなことじゃない。

 しかし、構えた短刀からは彼女も推し量ることの出来ない量の怒りや恨みが流れ込んでくる。それは彼女も気付かなかった、魂に脈々と受け継がれていく仲間達の怨嗟の声だった。

 炎と多くの悲鳴を前にして、思い出したように噴き出す。

 止める術が思い付かない──彼を前にして自分もそう思っているのだから。

 そうだ、どうしたって自分と彼は違う。

 どうしても、この憎しみは消すことは出来ない。

「違う。僕は死にたくない」

 その時、あらゆる音を押し退けて彼の声が耳に届いた。涼やかな物言いで放たれた否定の言葉が、ふわりと彼女の心を支える。

──何を、どうして。

「違わないわ」

 頭が混乱する。自分でも何を「違わない」と言っているのかわからない。

 彼か、自分か。

「違う」

 ちいさく言い切った彼の言葉が、彼女の混乱を断ち切った。

 ああ、そうよ、これだ。

──私はこの声を聞く度に、自由になれていたんだ。

 心が軽くなった。未だ渦巻く怨嗟の声も悲鳴も鳴り止まないが、それらはそれらとして静かに聞き置いておく場所が僅かに出来る。

 あの怨嗟や悲鳴は私の心、私の魂。

 否定も肯定も出来ない、ただそこにあるだけのものを聞き流すことだって出来ないし、忘れてはいけない。

 だが、彼を目の前にして喜ぶ気持ちも私の心であり、私の魂だ。

 それは否定出来ない。

──どちらも、「私」。

 彼が手を差し出す。

「僕は君と生きたい」

 この声を、ずっと待っていた。

 笑顔で頷けただろうか、と思ったその頬を、暖かいものが流れ落ちた。

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