二人─5

──もう、この土地に恵みはない。

 そう呟いた父親の顔を思い出して駆朗は顔をしかめた。恵みを享受するだけではいずれ枯渇する。山の神々や大地と対話し、どう享受され、どう返していくかを怠った人間にこそ罪があるというのに。

 怠惰の結果がこれかと思うと、呆れを通り越して腹立たしかった。

 大木をなめる炎はあっという間に大きくなり、頂点まで達する。その枝から落ちた葉や小枝が新たな火種となって周囲に燃え移り、彼らの点けた火の倍以上の威力を伴って森を侵食していった。

 自らが放った火の威力に腰が引けた村人はもう山にはおらず、次に備えて一旦村へ戻っている。山が炎を蹂躙し尽くした後、そこに住む太古からの住人を一掃する為だ。

 足を止めてなどいられない。父親の行動は恐ろしく早く、冷酷だ。息子である自分がよくわかっている。

 父の自室に呼ばれた時に感づくべきだった。そこに村の有力者と言われる面々が揃い、祖母まで席を連ねているのを見て初めて、彼は事の異様さに気付いた。

 これほどの人間を集めた事は彼が記憶する限り、未だかつてない。有力者のみならともかく、祖母まで列席しているのはおかしい。ぼんやりとした頭が急激に冴え渡る。

 そこへ、父親のあの発言だ。

 それ以上の事は言わずとも、といった雰囲気で、それぞれが目に決意を固めたのを見た。

──狩りが始まるんだ。

 駆朗が幼い頃に一、二度行われた記憶があるものの、決して良いとは言えない記憶だった。

 村の中心部に大きな焚き火が焚かれ、そこへ村人たちが何かを放り込んではまた山へ行くのを、彼は乳母の腕に抱かれながら見ていた。

──見てはいけませんよ。

 乳母の必死な声が蘇る。いつもは優しい乳母の指が肩に食い込み、駆朗をその場面から遠ざけようとしていた。

 そうだろう。焚き火に投げ込まれているのは村人が狩った異能。時折、まだ息のある者がいたのだろう、耳を覆いたくなる悲鳴が夜闇を切り裂く。嫌な匂いはそれから数日間、村に漂い続けた。

 また、あれが行われる。それも過去にないくらい大きな。

──嫌だ。

 嫌だ、そんなことはしたくない。やりたくないと父親に言っても黙殺され、火種となる松明を持たされて村人と共に山へ入った。

 村人の行動は迅速だった。そして火の回りはそれ以上に速かった。だから彼は今こうして、村人の目を逃れて山を歩ける。

 袖を火の粉が焼いていた。売ればそれなりの値がつく代物も、あちこちが黒く穴の開いた状態で見るも無惨だ。頬も煤けて黒く、額から零れる汗が黒く染まる。草履を履いた足には火膨れが出来、時折、激痛が走るも足を止める要因にはなり得なかった。

 肌を火が焼き、髪の毛は至るところ縮れてしまっている。火にまかれなかったのは幸運としか言い様がない程に、山は火に飲まれていた。

──そうだ、嫌だ。

 木々が火に飲まれる姿を見る度に、彼は「死」というものの恐怖を覚える。それはこれまで感じたことのない恐怖だった。

 動くことの叶わぬ木々はやってくる「死」を受け入れざるを得ない。それは彼らにとっては極めて自然なことで、例え今回のように人の手によって急激にもたらされたものだとしても、順当なものとして受け入れることが出来るような生き方をしているのだろう。

 だが、自分は、まだだ。

 まだ自分は「死」を受け入れるだけの準備も生き方もしていない。「完全な死」を望むだけ望んでおいて、そうして自分には何が残るのだろうと考えてしまうのだ。

 考えてしまうのなら、まだ死ねない。死にたくない。生きていたい。生きなければならない。

──彼女に会う為に。

「……いた」

 火勢の強い所を通り抜け、煙のない空気を味わいながら太い木の根に足をかけた時、彼は思わず口に出していた。

 夜闇の中でも漆黒を際立たせる黒髪、白い肌、凛とした姿──唯一、記憶と違うのはその顔が歪められていることと、その手に握られた白刃だけだろうか。

 だが、嬉しさが衝動となって深く考えることは出来なかった。一気に駆け上がって彼女の前に立ち、荒い呼吸をしずめながら見据えた。

「……狩りが、始まった。僕には止められない」

「仲間が何人も死んでいくのを見たし、声も聞いた。……あなたはさぞかし嬉しいでしょうね、うまくいけば死ねるもの」

「違う。僕は死にたくない」

「違わないわ」

「違う」

 言い募る彼女には冷静さが欠けている。対して、駆朗はひどく気分が落ち着いているのを感じた。

 ただ言葉を交わせることに、純粋な喜びを感じていた。

「……僕は、死にたくない。今は死ねないと思った」

 木のはぜる音が間近に聞こえる。時間がない。

 泣きそうな表情の彼女に手を出した。

「僕は君と生きたい」

 この言葉を、彼女に言いたかった。

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