彼─3
風を伝って耳に届いた声は鈴を転がすようだった。まるでどこかの本から引用したような例えだが、正にそうなのだから他に例えようがない。
笹が足元に揺れる。早くしろ、と急かされているようだ。
だが、何を?
連れ出してくれと彼女に懇願しろというのか。着物からのぞく白く細い腕を見て、心の中で失笑する。
いくら逃げ出したいとはいえ、馬鹿げている。
山間に身をすぼめるようにしてひっそりと暮らす集落からただ逃げたいと言うだけの彼が、どうして出会ったばかりの彼女にそんなことを頼まねばならないのか。
彼女の中に通る凛としたものにひかれたのは認めるとして、と彼はちらりと視線をそらした。
そらした先で笹が揺れる。深い緑の生き物がそこかしこで蠢いているようで気味が悪かった。
──ああだけど。
何と彼女に似ているのだろう。
心の中で感嘆の息をもらす。かちりと、穴の開いた部分にぴったりの物が見つかった爽快感があった。
そうだ。彼女はこの緑に似ている。緑、笹──総じて言うならば山そのものに。生命力に満ち溢れ、どんな者をも暖かく抱く穏やかさの一方で、敵あるいは分をわきまえぬ者には限りなく冷たい厳格さをも持つ、山に。
彼はそらした視線を戻した。
自分を見据える彼女の眼差しは正に神の眼そのもので、深い黒の瞳の前では彼は小さな人間でしかなかった。
豪家の息子でも傲慢な祖母の孫でもない、ただ「彼」という小さな人間を映し出している。
憧憬に似た渇望はゆるやかな変化を遂げ始めていた。それがどんな名を持つ変容の仕方なのか今の彼にはわからなかったが、己の気持ちに弾みをつけるものには間違いなかった。
笹の流れる音がする。
葉のこすれあう音は群をなして二人を取り巻く。世界に向かい合う彼ら二人しかいない錯覚に陥り、彼は思わず足を踏み出した。
大きな音が沈黙を断ち切る。
それは、彼が初めて自らの意志で踏み出した音だった。
「……もっと、話してくれないか」
震える声は、彼女を恐がらせなかっただろうか。
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