犬はすっ、と目を細めて閉じていた口を開く。そうして肢を一歩踏み出した時、ばん、と強い音がした。
「慎!!」
 うずくまる慎に駆け寄る嵐を確認すると犬は踵を返し、夜闇に溶け込んで消えた。
「どうした、何だあれは」
「……よく、わかったな」
 顔面蒼白で声は震えている。
「勘は良いんだよ。それよりあれは」
 意気込む嵐に対し、慎は二つ三つ深呼吸して後、低く言い放った。
「気にするな」
「気にするな?」
 慎の態度の腹立たしさがこみあげ、思わず声を荒げて肩を掴む。
「いい加減にしろ! 俺はもうあの犬を見た。親切にもあれは、警告までしてくれたよ。俺は充分当事者だ。それでも」
 嘆息して気を落ち着かせ、肩から手を離す。手にはうっすら、汗がにじんでいた。
「それでもお前は気にするな、か?」
「……嵐」
 ぽかんとしていた表情から転じて、慎はくつくつと笑い出す。既に顔色は良く、声には張りが戻っていた。
「……叱ってんのに笑うかお前」
 肩を震わせて笑う慎を前にし、声を荒げた自分が恥ずかしく思えた。
「君がそこまで怒るとは思わなくて」
「あのな……」
「それに」
 顔をあげ、嵐の手を指差す。
「汗でびっしょりだ。肩が濡れた」
 決まりが悪そうに手をぶらぶらと振り、ズボンに掌を強く擦りつけて拭き取った。
「洗ってくる。お前も着替えろよ」
「なんで」
「お前こそ汗でびしょびしょだ」
 言われれば成る程、どうも冷たいと思ったら湿っている。先刻の出来事が体中の汗腺を全開にしてようだ。
――ああ、冷たい。
 つまめばまだ、じんわりと水がにじんだ。
 立ち上がり退室しようとした嵐に、背後から声がかけられる。
「話そう」
 声が響いた。
 低く、しかし決意に満ちた声が。
「君に、話そう」


五章 終り

- 54/323 -

[*前] | [次#]

[しおりを挟む]
[表紙へ]




0.お品書きへ
9.サイトトップへ

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -