犬はすっ、と目を細めて閉じていた口を開く。そうして肢を一歩踏み出した時、ばん、と強い音がした。
「慎!!」
うずくまる慎に駆け寄る嵐を確認すると犬は踵を返し、夜闇に溶け込んで消えた。
「どうした、何だあれは」
「……よく、わかったな」
顔面蒼白で声は震えている。
「勘は良いんだよ。それよりあれは」
意気込む嵐に対し、慎は二つ三つ深呼吸して後、低く言い放った。
「気にするな」
「気にするな?」
慎の態度の腹立たしさがこみあげ、思わず声を荒げて肩を掴む。
「いい加減にしろ! 俺はもうあの犬を見た。親切にもあれは、警告までしてくれたよ。俺は充分当事者だ。それでも」
嘆息して気を落ち着かせ、肩から手を離す。手にはうっすら、汗がにじんでいた。
「それでもお前は気にするな、か?」
「……嵐」
ぽかんとしていた表情から転じて、慎はくつくつと笑い出す。既に顔色は良く、声には張りが戻っていた。
「……叱ってんのに笑うかお前」
肩を震わせて笑う慎を前にし、声を荒げた自分が恥ずかしく思えた。
「君がそこまで怒るとは思わなくて」
「あのな……」
「それに」
顔をあげ、嵐の手を指差す。
「汗でびっしょりだ。肩が濡れた」
決まりが悪そうに手をぶらぶらと振り、ズボンに掌を強く擦りつけて拭き取った。
「洗ってくる。お前も着替えろよ」
「なんで」
「お前こそ汗でびしょびしょだ」
言われれば成る程、どうも冷たいと思ったら湿っている。先刻の出来事が体中の汗腺を全開にしてようだ。
――ああ、冷たい。
つまめばまだ、じんわりと水がにじんだ。
立ち上がり退室しようとした嵐に、背後から声がかけられる。
「話そう」
声が響いた。
低く、しかし決意に満ちた声が。
「君に、話そう」
五章 終り
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