黄昏四辻の主と丁稚
戸の敷居を踏まないように。ほら、こっちだ。……ね? 歩きやすい道だろう? それにしても小川の流れる道とは風流だ。オレにはちょっと嫌味な道だけどね。水が苦手なのさ。……お、抱えてくれるとは嬉しいや。重くないかい? 最近、姉御に太りすぎと言われていてねえ。ふかふかして気持ちいいって? そりゃ嬉しいな。毎日、毛づくろいと昼寝は欠かさないからね。それでさぼっている、って時々怒られるんだけど。気に入ったなら存分にこの毛皮を堪能していってくれて構わないよ。
ああ、失礼、お喋りに夢中になって案内がおろそかだった。そっちじゃないよ、お客さん。十三の下駄屋ははす向かいだ。そう、そっちね。
うん? 十二は何だって? お隣さんはお香屋だよ。雑念を払ってくれる、いい匂いなんだとさ。オレにはきつくてたまらないけどね。順番通りならこっちを案内するんだが、お客さんにお香は必要なさそうだ。姉御もそう判断したから、飛ばして下駄屋に案内しろって言ったんだろうね。ま、一人で来たんだからそりゃそうか。
さあ、ついたよ。オレが案内出来るのはここまでだ。帰り道? いったい、どっちが案内だかわからないよお客さん……嬉しいなあ。ありがとうよ、でも大丈夫。ほら、ここまでの道はお客さんのためのものだったから……っておっと、待った。振り返っちゃだめだよ。そうそうそう、前を向いたままね。振り返ったら、お客さんが置いてきたものが芽吹いちまう。そしたらここまで来た苦労も水の泡だ。オレの帰り道は大丈夫だよ。自分の道は自分で作れるからね。
……そんな、しょっぱい顔をしなさんな。だって、もうどうしてそんな顔をする必要があるんだい? ……ほら、覚えていないだろう?
オレはここに下ろしてくれて構わないよ。いやあ、人の腕に抱かれていたから、地面が冷たく感じるね。肉球が冷えるよ。
いいかい、お客さん。下駄屋に入ったら、まず行灯を渡すこと。そしてこう言うんだ。全てをおろしたく、こちらへ伺いました。いいかい、間違えちゃだめだよ。あとは下駄屋がやってくれる。お客さんはそれに従うだけでいい。
そしたら万事、うまくいくってもんだ。良かったね。
うん? どうしてそこまで親切にしてくれるのかって? そりゃ勿論、ここはそういう所だからだよ。あとはまあ、一人で来た勇気に敬意を表してと、そういうお客さんがどんな「やり直し」をしたいかを見てみたいからかな。うちの姉御が珍しく興味を示したってのもあるけど。
お客さん、一つお願いがあるんだ。オレの頭を撫でてくれないか? ……うん、そうそう、やっぱり人の手は温かくていいねえ。オレの毛並も気持ちいいだろう? ま、忘れちゃうことだけど、こうして気に入ってくれた人がいたってだけでも嬉しいな。「やり直し」た先で是非とも猫を飼ってみておくれよ。もしかしたら、なくしたオレの家族が「やり直し」ているかもしれないからさ。……これも忘れちゃうかな。
オレの名前? ……オレは黄昏四辻の三番角、十一の行灯屋が主にお仕えします、丁稚のツブテと申します。この毛色が石ころみたいで、姉御がそうつけたんだ。
それでは、これにて行灯屋の仕事は完了にございます。
お客さまの新たなる旅のご無事を、心よりお祈り申し上げます。
……じゃあね、お客さん。今度はよい人生を。
終り
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