手記



 そう、外にはまだ明るさが残っている。だから、暗いのは光を遮断する「何か」がそこにあり、そして、その「何か」が差し込み口の蓋を開けているのだ。
 逃げなければと思うのに反して足は全く動かない。目を逸らしたくとも、頭が動かない。恐怖で動けないのか、得体の知れない力で動けないのか、理解の追いつかない体の反応に、私の精神は恐慌をきたした。
 背中が冷たい。悪寒が背筋を上り、うなじから後頭部にかけて移動する。手足の感覚が指先から薄れ、体の重さも実感出来なくなったその瞬間、差し込み口の影に小さく光る物が見えた。
 いくつもの金属のボタン、しかし光の反射の仕方が妙に艶めかしい。まるで水を張ったような、と思った時、その光が上下から一瞬だけ閉ざされて元に戻った。私はこの動きをよく知っていると思った。あれは人の目の瞬きだ。
 無数の人の目が、差し込み口を覗いている。
 それから先の事はよく覚えていない。気づけば私は床に倒れており、目覚めてからはあまりの気持ち悪さにその場で嘔吐してしまった。胃の中の物を全て出しきった後は不思議と気持ちが落ち着き、私は倒れる前に見たものを思い出して玄関を振り返った。
 ドアはいつものまま、差し込み口の蓋も鈍い光を放つのみだった。あれは幻だったのでは、と思いたくなるほどいつもの風景で、私はその場に座り込んだまましばらく動けなかった。疲れてもいたし、考えをまとめるより体と心を落ち着かせたかった。
 そうしてしばらく過ごし、私はようやく周りを見る余裕が生まれた。
 まず、掃除をしなければならない。吐瀉物のすえた匂いが鼻を突く。トイレにこもっていた名残の片づけもしよう。
 室内を見渡して、ふと、閉じたカーテンの向こうから差し込む光に目が止まった。私はしばらくその光を見つめなければならなかった。何故なら、強いその光は朝のものだったからである。柔らかな夕日とは違う、白く鮮烈な朝日は薄暗さに慣れた私の目には強かった。
 眩しかったのもあるが、それ以上に私はほっとした。体中に詰め込まれていた不安と疑心を、全て洗い流せる光だと感じて、涙が出た。生きるということに日常生活を維持すること以上の意味を持たなかった私にとって、今日ほど、生きていることに実感を持ったことはない。涙が出て止まらず、ありとあらゆるものに私は感謝した。親に妹、伯父、住職や神さまにまで。
 こうして、私は十二日目の朝を迎えた。


 文字にしてみると、滑るように全ては進み、終わっているように感じる。だが、現実はもっと遅く、泥の中を引きずられているような感覚だった。
 自らに起こった事を振り返ってみることで、私はどこから何が始まっていたのかを探るつもりだったが、書いてみればただの日記のようになってしまったことは否めない。ただ、こうして「書いて」吐き出すという作業が必要だったのかもしれない、とは終わった今になって思う。
 今は伯父たちの来訪を待っている最中である。日にちで言えば十二日目の昼過ぎ。巣篭りに必要な日数は達成したため、文字にするだけなら害はないと思ってこうして書いた。何かあれば燃やしてしまえばいい。
 二度と味わいたくない体験をしたが、きっとこれからも私たちの一族にはついて回ることなのだろう。伯父たちはやり過ごせばいいぐらいに思っているようだが、こんな経験を誰かに体験させてもいいとは私は到底思えない。住職に会えたら解決策を相談してみるつもりだ。ただし、『あれ』に気づかれないよう、慎重に動かなければならない。
 ひとまず、私はここでペンを置く。なので、最後にひとつだけ不安を吐き出させてほしい。
 途中から、隣室の生活音が全く聞こえなくなっていた。あの彼は無事なのだろうか。
 私は「そうして」逃げ切ってしまったのだろうか。それとも、本当に逃げ切れたのだろうか。
 伯父が玄関のドアを叩くまで、私は最後に残った不安と静かに戦うことにする。



終り

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