旅路




 天上では満天の星が肩を寄せ合って濃紺の空を埋め尽くし、目を下方に転ずれば水平線の彼方に沈み込もうとする夕日が見える。彼が溶け込もうとしているのは広大な水の平原であり、独特の匂いを伴うそれが「海」だということは、本か何かで得た知識であった。
 山の冷たい風から、海を渡ってきた潮風に代わり、雨具に残った水を力強く吹き飛ばしていく。ついでとばかりに被っていたフードもさらい、すっかり冷えた髪の間を潮風が遊びながらかきあげていった。
 カーラムは山羊を下り、叔父の横に並んである一点を見つめた。
「あれをお前に見せたかったんだ」
 カーラムは海というものを知らないで育った。山で育ったのだから当然であり、しかし、文字で仕入れた知識からとにかく広い湖を想像していた。
 そして今、本物の海を目の前にしてその想像の貧困さを思い知らされたわけだが、そこには彼の想像にも、勿論、文字にもなかったものが存在していた。
 海の彼方、水平線に溶け込む夕日の右隣に滝が流れているのである。否、滝というよりは水の柱、あるいは屹立した川とでも形容するべきなのか、カーラムはその存在を例える言葉を探すのに苦労した。
 それは唐突に海の真ん中から垂直に、水の流れを作りだしていた。支えるものは何もなく、夕日を反射する輝きから、流れの向きは天に向かってである。
 雲一つない夜空の裾野に水の柱は吸い込まれるようにして流れ、目のいいカーラムでさえその行方が見えなくなるほど高く続いているようだった。
 カーラムは叔父を見上げた。叔父は水の柱を見つめながら答える。
「還りの道、円環の道、輪廻の道、色々な呼び名がある。多くの死人が出た約三年後に、近くの海に現れるものだ」
 叔父は天上に吸い込まれる「道」を見上げた。
「あの道を通れば必ず天上に行けると言われている。地上で負った傷を、あの水で癒しながら導くんだそうだ」
 カーラムは叔父が見つめる先を共に見つめ、乾いた唇を動かした。
「……三年かかって、あそこに行くの?」
 抑揚を欠いた声はたどたどしく文章を作りだす。久しぶりに聞く、会話を望もうとする言葉であった。
「傷ついたら、誰もそんなに早くは立てん」
 言いながら、カーラムの頭に手を置く。
「あれは、それまで待ってくれる。皆の準備が出来るまでな」
 見上げるカーラムの両目から、大粒の涙が零れ落ちた。
 それはずっとカーラムの中で出口を待っていたものであり、止めるものがなくなった今、涙は止まることを知らずに頬を流れ続ける。
 叔父はカーラムを静かに抱き寄せた。慣れない仕草だということはすぐにわかった。肩を掴んだ力は痛いほどに強い。しかし、それが叔父に出来る最大限の優しさの表れであった。
 しばらくの間、二人は佇んでいた。潮風に吹かれ、雨の名残も失せ、夕日が完全に水平線の彼方へと姿を消した時、カーラムは涙を拭ってぽつりと呟いた。
「……おれ、またここに来る」
 叔父はカーラムを見下ろした。カーラムは海へと視線を向けたまま続ける。
「三年経ったら、あの山羊もあの道を通るんだよね」
 カーラムの頬に既に涙はない。潮風で乾いた跡が残るだけだった。叔父は安堵の息を吐きながら、「そうだな」と頷く。
 さざなみを聞きながら「道」を見つめ、やがて、叔父は行こうと促した。辺りは暗く、野宿のための場所を探す必要がある。カーラムは頷いて行きかけたが、一瞬、「道」へ目を向けてから叔父の背中を追った。
 星の光を身に散りばめながら、「道」は旅人の姿を見送る。
 カーラムの旅は一度の終わりを見せた。
 そして新たな道へと踏み出す彼の背を、海からの風がそっと押し出す。



終り

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