れんげ草




 そのキャンバスには紫と白がグラデーションのように混じりあって一面に広がり、青空の下で揺れているさまが描かれている。所々に混じる緑色が春の温もりを連想させ、筆の形に盛り上がった絵の具が微かに夕陽を反射した。
 それを見た途端、勇人は膝の力が抜け、その場にへたりこんだ。
 キャンバスから一度も目を離せず、見開いた目から涙が零れては落ちていく。嗚咽を噛み殺し、心の底で澱となって残っていたものが氷解していくのを感じた。
 懐かしい。この筆の形も、絵も、そこに込められた心の何もかもが。
 涙をぬぐい、緩慢な動作で携帯を拾い上げて無事を確かめる。バッテリーカバーが外れていたが、壊れてはいない。学校では開けなかったメールフォルダを今度は開いて、既にその位置も記憶しているメールを開く。
 それは昨日の夜に来たメールで、差出人は佐野からだった。
 題名はなく、本文には簡潔に、「絵ができた。渡したいから、取りに来てほしい」とだけ書いてある。それ以上でもそれ以下でもない。勇人を貶す言葉も何もありはしなかったのに、勇人は勝手に怯えて逃げた。
 佐野には勇人と向き合う準備が出来ていたのにも関わらず。
 勇人はフォルダを閉じ、しばらく携帯の画面を見つめた。それからずりずりと門柱の影に移動し、キャンバスを抱えて座り込んだ状態で電話帳を開く。佐野の名前はすぐに現れ、いつまでも押せなかった通話ボタンを、勇人は躊躇いなく押せた。
 呼び出し音が鳴る間、勇人は身を縮め、顔を俯かせる。
 そして数秒ほど呼び出した後、ぷつ、と繋がる音がした。電話の向こうは静かだ。
 勇人は口を開く。
「──…れんげ草、描けたんだ」
 ややあって、うん、と応える声があった。
『……やっぱり、お前と洋子さんには忘れないでほしかった』
 忘れない、と言った声が震える。
「忘れるかよ。絶対忘れないからな。絶対だ」
 佐野はしばらくしてから言った。
『……俺、苦しかったけど、お前たちがいて良かった。それだけは言いたかったんだ。だからそれ、大事にしてくれたら嬉しい』
 うん、うん、と勇人は答える。固く結ばれていた糸が解け、様々な感情が溢れた。
「ごめん」
 ずっと言い出せなかった言葉を、口にする。
「ごめん。逃げてばかりで、本当にごめん」
 佐野が何と答えたのかは、勇人には聞こえなかった。
 春の風が優しく涙を乾かす。
 キャンバスの中のれんげ草も、心地よさそうに揺れている。




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