ベルの鳴る頃


──結局、あの人は徹底的だったのよ。
 目の前に置かれたコーヒーがいい匂いをたてる。微睡む目を叱咤するかのような苦味のきいた香りは、しかし、徹夜明けの頭には些か厳しい。
「飲まないの?」
 カウンターの向こうでお客よろしく、本を片手に茜の顔を覗き込むのはこの喫茶店のマスターである。早朝の稼ぎ時を終えてランチの用意をするまでの空白の時間、こうして本を片手に少ない客の相手をするのが日課だった。
 茶色い液体に映る疲労に満ちた自分の顔から視線を上げ、茜はカウンターを覗き込む。
「前も読んでなかったっけ、それ」
「うん」
「また読んでるの?」
「最近面白いのがないからね。オススメある?」
「うーん、最近忙しいからなあ……」
 カウンターから体を離して天井を仰ぐ。その姿を見て、マスターは本で口を覆った。壮年ながら、いちいち仕草の可愛い男性だと思う。若い頃はさぞもてたことだろう。
「あれ、今日も仕事だったの?」
 日曜なのに、という言葉を飲み込んだ気遣いがありがたい。茜は体をカウンターに戻して苦笑した。
「ううん、違う。お通夜だったから」
 またもマスターは言葉を飲み込む。二の句が次げないでいる様子に無理矢理、笑顔を作ってみせた。
「そんな深刻なものでもないわよ。母方の祖母なんだけどね。98まで生きたら大往生だって言って賑やかなもんよ、そりゃ」
 日頃集まらない親戚が集まれば話に花が咲く。酒の入った通夜ほど賑やかなものはないが、偲ぶ故人とのやがては薄れゆく縁をどうにかして繋ぎ止めておくように、必死になって酔っているようにも見えた。
──結局、あの人は徹底的だったのよ。
 だから、人の声には敏感になる。思いがけず聞いたその抑えた口調は母親のものだった。
「そう言う割に顔色はよくないね」
「ああー……うん」
 母親の言葉がこだまする。耳にこびりついて離れないそれは特異な響きを持ち、音叉の如く、幼い頃に聞いた記憶が蘇る。
 亡くなった祖母は昔、豪農の娘だった。当然のことながら使用人も多く、その内の一人でヨキという娘とは年が近い所為か、特に親しくしていたという。
 しかし、戦争がその穏やかな関係も見境なく巻き込んだ。どんな経緯があったかは知らないが、あまり良い別れ方をしなかったようである。──それは互いを恨むほどに。
──徹底的だったのよ。
 終戦の後、祖母が会いたいと手紙を送っても返ってくる言葉はなかった。祖母が亡くなった今にしても、記帳にはヨキに繋がる名前は見当たらない。
 母方の親戚筋では割合に有名な話で、何かの節でその話になれば母親は怒っているのか悲しんでいるのか分からない顔で決まって呟くのだ。
 徹底的なのだ、と。
 茜は溜め息と共に頬杖をつく。血が繋がっていても母親がわからないのはこういう時だ。
「……何かね、祖母の」
「いらっしゃい」
 開いた扉と共にベルが鳴り、話そうとする茜を遮った。本を置いたマスターの顔は店主のそれへと変わる。
 注文に応じて紅茶を煎れ、奥のテーブルに座った壮年の男性の前にポットとカップを置いて戻ってくる。
「いいな、私もたまには紅茶頼んでみようかな」
「茜ちゃんはコーヒー専門でしょうが。だから豆だって揃えたんだよ」
「ごめんごめん。……あの人、いい感じね」
 何が、という言い方はしない。その曖昧さがマスターの抱く感覚と合致した。
「ああやっぱ、茜ちゃんもそう思う。見たことあると思うけどなあ、変わった常連さんだよ」
「ええ?ないけど」
 記憶を手繰り寄せてみるが、あれだけ品の良い顔をしていれば必ず覚えている。
 口許に蓄えた髭にはいやらしさがなく、頬や目尻に刻み込まれた皺や白いものが混じる髪など、彼の存在そのものから品位が滲み出てくるようだ。
 帽子や服のセンスも申し分ないが、それだけではない。生まれ、というやつだろう。
「知らないわよ、本当に」
「まあ、いつもそこ座って僕と話してるんだもんね。気付かないか」
「勘に障るなあ」
 仕方ないよ、と言ってカウンター内の丸椅子に座る。
「あのお客さん、まあ茜ちゃんだから名前言うけど建川さんて言うんだけどね。建川さんはいつもあの席だから。気付く方が稀」
「ふうん。暗くないのかしら」
「だからカウンターにどうですかって言ったことあるんだけど、断られちゃったんだよねえ。待ち合わせ場所だからって」
「常連って、まさか毎日じゃないよね?」
「その、まさか。未だにその待ち人には会ったことないけど」
「何それ」
「まさかダイレクトにそう聞くわけにもいかないから、さりげなく聞いてみたんだよ、一度」
 さりげなくと言うが、それはマスターとこの場所だから出来た芸当だろう。
 控えめに流れるモダンジャズ、一定の間隔でコーヒーの一滴を落とし続けるサイフォン、目立たない所に設置された空調の音さえも緩やかな空間の演出家となる。
 同じようにマスターの低い声は耳に心地よく、話しかけられれば口は自然と言葉を探す。ここはそれが許される場所だった。
「そしたらね、会える可能性もない相手なんだって。不思議でしょう。なのに何で待ってるのかなって」
「聞いた?」
「うん。許してもらえるかと思ったからなんだってさ」
「思いがけず重いわね」
「と言ってもそれは建川さんのお祖母ちゃんの話で、建川さんは代理で出向いてるらしい。お祖母ちゃんは亡くなったから、その意志を継ぎたいんだって」
「……へえ」
「何でもお祖母ちゃんが昔、奉公していた先のお嬢さんと仲が良かったのに戦争の煽りを受けてね。家族に食べさせる為に──魔が差したって言うんだろうね、お嬢さんの大事な着物を盗んで売ってしまったそうだ。向こうだって事情はわかる筈なのに、で仲違い」
 聞きながら、茜は胸の中でちりちりと鈴が鳴るのを聞いた。
──あれ?
「戦後に一度だけ手紙が来たんだけど、それも無視。けど、それだけが本当に心残りだったみたいでね、以来ああして孫の建川さんが出向いてる次第」
「何で喫茶店のあんな奥なの?」
「お嬢さんに連れだって行った喫茶店では、いつも奥の席で話してたっていう思い出からなんだって。どうもこの近所……」
──結局、あの人は徹底的だったのよ。
 建川が帽子を被り直してカウンターに向かう。マスターは慌てて口を閉じ、清算を済ませた。
 ベルの音も大人しくドアを開閉させる背中に、生前の祖母と似たものを見る。
──徹底的だったのよ。
 消化しきれなかった想いと、焦りと、後悔が混ざり合って輪郭をだぶらせた。
 誰かを待って待ちきれなかった背中には覚えがある。その意味では確かに徹底的だったろう。待ちきれずに行動を起こしたのだから。
 祖母もヨキも、孫の代にまでそれを徹底させている。なら、もう一歩踏み出しても同じことではないだろうか。
──ああ、あの人だ。
 殆んど反射的に立ち上がって、茜はドアを乱暴に開ける。カウンターでは既に湯気を納めて久しいコーヒーが寂しげに主を見送っていた。
「……インスタントなのがバレなくて良かったかな」
 豆の仕入れが間に合わなかったんだよね、とのんびりとした調子で呟いて、マスターは再び丸椅子に腰を落ち着けて本を取った。
 けたたましいベルの余韻を残して閉じるドアの向こう、窓から見える先で茜の声に建川が振り返っている。




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