愛とは




 老人は煙草を備え付けの灰皿に入れて消し、孝の隣にどっかりと腰を落ち着けた。
「俺はこういうの下手だからはっきり言うわ。死んだら駄目だよ、あんた」
 骨ばって日焼けした手が、強い力で孝の手を握る。
 決意が揺らぐ。
「俺はこないだかあちゃん亡くしたからわかるけど、家族が一人でも欠けるって苦しいよ。あんたも親は元気だろ?」
「……はい」
「なら、余計、やっちゃいけねえ」
 老人は頭を横に振った。
 それにさ、と言って手を離し、黄色い歯を見せて苦笑いする。
「ここは俺の故郷だから、自殺とかより海を見て欲しいんだよ。綺麗だよ、ここの海は」
 そうですか、と答えた孝の声には力がなかった。
 老人は一瞬だけ悲しそうな顔をして、身を引く。それから頭をかき、溜め息と共に首に下げた何かを手繰り寄せた。
「あんた携帯電話持ってるよね」
「持ってますけど」
 孝が面食らっている前で、老人は長いストラップの先にある携帯を取り出した。メールと電話が出来ればいいというような簡単な機種だ。
 それをぽつぽつと扱っているのを半ば驚きつつ見ていると、老人は恥ずかしそうに笑う。
「娘がどうしても持てって、この歳で猛勉強だよ。……はいこれ、俺の番号」
 提示された画面には、ランダムに配置された数字が並んでいる。
「メールはちょっと勉強不足でさ」
 きょとんとする孝の様子が「電話よりもメール」という態度にでも見えたのか、老人は困ったように笑って言う。
 断ろうか、断るまいかと悩んでいた時、不意に、背を伸ばしてホームを見た老人が大きな声を上げた。
「あ、電車が来ちまった。ほら、早く」
 急かされるまま携帯を取り出し、素早く電話帳に入れる。その様子を見ていた老人は感嘆の息をついた。
「はー……やっぱり若い人ってのはすげえや。片手でぱっとだもんな。あんた、帰りに電話してくれよ。な?そしたら家に泊めて美味い魚食わしてやるからよ」
「いや、その」
 じゃ、と言って老人はさっさと電車に乗った。立ち上がりかけたままの格好の孝を置いて、電車はのろのろと発車する。
 静かになった待合室には再び、お湯の沸騰する音だけが淡々と降り積もっていく。腰を下ろした孝は携帯の画面を見つめ、名前の欄はどうしようかと考えた。消しても良かったのに、クリアボタンを押すことが出来ない。
 ぽちぽちと名前欄に入力していると、バスがやってくる。携帯をしまい、バッグを握り締めて待合室を出ようとしたが、ふと気になってストーブを振り返った。駆け足でたらいの中を覗き込むと、お湯は半分以下にまで減っている。バケツに残った雪の塊を二、三個掴んで放り込み、今度こそ待合室を出た。
 小柄なバスには乗客が三人おり、一番後ろの席へと移動する孝を車掌共々不思議そうな目で見送った。見知らぬ若者はそれだけで目立つ。
 座席の隅に身を縮ませて座ると、バスが発進する。慣れた道のりの運転に危なげはなく、片側一車線しかない道路であることを思わせるのは近くに迫る家の屋根だけである。
 そうして走ること五分ほどだろうか、一度も止まることなく走るバスの視界が一気に開け、孝は窓に顔を近づけた。
──綺麗だよ、ここの海は。
 冬の海は荒く、白い波が至るところで暴れ回る。波に引っ張り回されるようにしてうねる海は夏のそれよりは暗く、だが、雄雄しい姿には見る者を引きつけて放さない強さがあった。
 岩に打ち付けて弾ける飛沫、風に合わせて変化する海の色──そして、重い雲の間から思い出したように差し込む太陽の光。待たせてしまったね、と詫びるように海面を滑る光は柔らかく、そしてきっと暖かいものなのだろうと思うと、知らぬ間に孝の頬を涙が伝っていた。
──天使の階段だ。
 雲間から差し込む陽光を、そう呼ぶことがあるという。
 孝は窓から顔を離し、俯いた。それからしばらくして、緩慢な動きで携帯を取り出す。開いた画面は編集途中の名前入力の欄で、「おじい」で止まっている。
 残りを入力して、登録ボタンを押した。登録完了メッセージが出たのをぼんやりと見つめていた孝はバッグを足元に下ろし、たった今登録したばかりの番号に電話をかけた。
 耳に当てて呼び出し音を聞きながら、再び俯く。
 さんざん泣いたはずなのに、まだこれだけの涙が残っていることが驚きだった。隠す相手もいないのに目頭を押さえ、喉の奥からせりあがってくる嗚咽をかみ殺す。
 数回の呼び出し音の後、ぷつ、と電話が繋がった。「はい」と答えた声が、さっき別れたばかりなのに、もう懐かしく聞こえる。
「……あの、さっきお話しした……はい、そうです」
 電話の向こうで音が割れるほど大きな声が応えた。喜んでいるのだと思うと、余計に涙が出た。
「それで……じゃあ駅で……すみません」
 消え入りそうな孝の声が、バスの音に飲まれていく。
 はい、はい、と繰り返し応えながら、孝はちらりと海を見た。
「……本当に、綺麗な海でした」



終り

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