カンナ村は、砂漠と荒野の向こう、虹雅峡より徒歩でおよそ一週間前後の距離に位置する。岩の山と深い森林に守られた肥沃な土地は、今も昔も豊かな作物を実らせる。特にカンナ村は水源にも恵まれており、小さいながらも良質な米の産地として近隣の農村と共にその名を連ねている、豊かな村であった。 しかし、そんな緑深い農村でも、農民達の暮らしは豊かなものとは言い難かった。それは他の村の例に漏れず、毎年決まって、あるいは不意にやって来る野伏せりの脅威に晒されている故にあった。
大戦の時代も終わり、漸く長年続いた莫大な年貢の要求も終わったのだと思ったのもつかの間、野伏せり達は変わらず現れた。しかも以前にも増して、大型の野伏せり(つまり紅蜘蛛や雷電)の数が増えた。 ――野伏せり達はやはり、力に物を言わせて農民達から片っ端からなにもかも、限界まで搾り取っていった。“年貢”と称して常に一定以上の米を奪って行った。豊作の年は当然その分多くを要求した。少しでも不満を見せたり刃向かったと見なせば、見せしめとして命すら奪って行った。時には近隣の村への見せしめとして、村丸ごと焼き討ちにし、家も家族も親も兄弟も、老いも若きも幼きまでをも殺した。少しでも足りなかったり、質が落ちたとすればその埋め合わせを求めた。金目になりそうなものはなんでも、乙女をも奪って行った。 まるで風前に晒される灯火のように、何時気まぐれに消されるかも分からないという恐怖は、農民達から気力も奪い去る。大戦が終わっても止むこと無く、むしろ以前にも増して襲い来るようになった野伏せりの存在は、希望すらも奪った。 ……それでも、死にたくない。 諦めろ。何も考えず、ただ汗水を垂らして地面に這いつくばって、野伏せりに目をつけられぬように黙々と米を作ってさえいれば……そうすれば殺されずに長生きしていられる――。 農民達は目と耳をふさぎ、口をつぐんで時代に取り残されながら耐え忍び生きる事を選んだ。
――カンナ村もまた、そんな野伏せりの脅威に怯える農村のひとつだった。そんなカンナ村に一迅の小さな雷が走ったのは、つい数日前のことだ。
「……野伏せり、突っ殺すしかねえだ」
葛藤の末に、恐怖で息も絶え絶えに、しかし怒りと憎しみを込めてそう搾り出したのは、村の若者 リキチである。当然、それは村人達にとってとんでもない言葉で、特に耐える事にも慣れた、言わば諦めた年層の村の男達は、彼を非難し、咎めるように声を荒げた。
「なに言うだ、野伏せり様ァ突っ殺せるわけねぇだろが!」 「二度と来ねえようにするには、それしか手はねえ!ずっと考えてたんだ。野伏せりを突っ殺す。突っ殺すんだ!」 「リキチィ、オメェが悔しいのはわかる。みんなおんなじ気持ちだ。だども、無理だ!相手はサムライだぞ。戦するために自分の体ァ武器に作り替えてるだぞ!おらたちがかなうわけねえ!」 「野伏せり怒らせた村がどうなるか、お前だってじゅうぶん知ってるはずだ!」 「刃向かって皆殺しになった村はいくらでもあるで、それに比べたら――」
生かされている自分達は、まだましだ――。マンゾウという男が、長年自らに刷り込んだ常套句を、リキチだけでなく他の者にも言い聞かせるように吐き捨てる。しかしリキチには、もう我慢ならなかった。
「そんなバカなことがあるかーっ! お前らいつだって、仕方ねえ、あきらめろ、できねえ、そればっかりでねえか!お前ら我慢のしすぎでアタマおかしぐなったんでねえのか!?このまンまでいいのか!?このまンまでいいのかよぉっ! ……俺はもう嫌だ。毎年毎年、こんな思いして米作って、なんのための米だ!」
吼えるように怒鳴り散らしながら、リキチは涙を堪えていた。我慢し続けるだけの日々に、なんの意味があるというのか。親も兄弟も、仲間も奪われた。親しい友も奪われた。愛しい伴侶も奪われた。胸が張り裂けそうで、生きた心地のしない日々を繋ぐ事に、なんの意味があろうか。 否、なんの意味も無い。 それでも、男達は動こうとはしない。頼り無い蜘蛛の糸を掴もうと躍起になって、下手にもがいて底無しの泥沼に速く沈む危険を冒すよりも、緩やかに死んでいくしか無いのだと。諦める他に選択肢はないのだと、相変わらず不変の檻という殻に閉じ籠り続けようとしていた。 ――しかし、村の先導者は、まさに鶴の声を発した。
「やるべし」
嗄れた、しかしはっきりと響いた老人の言葉に、男達に動揺が走る。唖然としながら我が耳を疑い、老人の正気を疑ってすらいる彼らの心を見透かすように、老人は再度繰り返した。
「野伏せり様、やるべし」
深い皺だらけの萎びた老人の眼が、強い生気をみなぎらせてリキチを見る。他でもない、村の最たる決定権を持つ長老からの後押しである。リキチは唇を引き結んで、力強く頷いた。
「サムライ、雇うだ」
無理だ、無茶だと食い下がる男達を一蹴するように、老人が硬い牢から手を伸ばして手繰り寄せたのは、煌めく細い蜘蛛の糸。蜘蛛の糸は細過ぎて、一見頼り無いように見える。しかしその糸を綱程に太く束ねれば、紅蜘蛛すらも絡め捉えて牙にかける事も可能にする程の、鋼の綱にも勝る強度の網が出来上がるのだ。上手くやれば、それが出来る――
「おお、そうだで、爺様。サムライ、雇うだ!」 「……だども、サムライは気位高けぇだ。百姓なんかの願い、聞いてくれる奇特な奴がどこにいるだか」 「腹いっぱい、米ェ食わす。たらふく食えるとなりゃァ、動いてくれる酔狂なサムライもみつかるだろうて」 「……本気だか、爺様」
他でもない長老が決めた事である。もう誰も文句を言えなかった。
「サムライ探すとなると、街に行くしかねえだな……」 「俺が行く」
真っ先に立ち上がったのは、やはりリキチであった。
「ウム。お前が行け。いいか、腹ァ減ってるサムライ探すだぞ」 「へえ!」 「後は、誰かいねえか」 「爺様」
部屋の隅から、鈴を鳴らすような、凛とした娘の声が響いた。成り行きを見守っていた水分りの巫子 キララである。立ち上がった彼女の手首で、振り子が光っていた。
「私が行きます。 私にはこの振り子があります。力になってくれるおサムライ様を見つけられると思うのです」 「ウム。水分り様、お前様の力がいる。……いいか水分り様。ハラのへってるサムライは、ただ、飯に飢えてるだけでねえ。振り子が水を探し当てるように、サムライも見つけてくれるで。 稲穂が頭を垂れるときまでに、サムライ連れてくるだぞ。いいな」 「はい!」
力強く返したキララは、キラキラと輝く振り子を握り締めた。
※
島田カンベエは自らの功績を振り返って、負け戦ばかりであったと自嘲する。 カンベエは最前線の部隊で指揮を取る兵士であった。数多と敗走を余儀なくされ、多くの部下達が倒れる中で彼が培ったのは、勝って死出の花を咲かすのではなく、どれだけの不名誉を被っても一人でも多くの仲間を生還させる為の術であった。負け戦の軍師と揶揄されるのにも甘んじ、機械にも入らず己を鍛え、激しい戦いに明け暮れた。 戦が終わって、存在理由を見失った多くのサムライが腹を斬った中、カンベエは生を選んだ。無様と言われようが、安易に死の花道を通る事だけはしたくなかったのだ。野伏せりにもならず、サムライであり続けた。
野伏せりと戦をしてくれ。 キララ達にそう言われた瞬間、渇きを覚えなかったと言えば嘘になる。しかし――カンベエの脳裏に浮かんだのは、涼やかな眼差しをした戦友達の姿だった。彼らは、居ない。
「儂は負け戦しか知らぬ。儂が行けば、村は全滅するぞ」
己が行って村人数人は救ってやれるかもしれぬが、“村”を勝たせてやれるかどうかは――否である。故にカンベエは厳しい言葉を返して、彼女達の前から去ったのだ。
ところが数日後、そろそろ次の街へ移る用意を整えるべきかと街を出歩いていると、不意にすぐ近くで悲鳴があがった。何事かと振り返って見れば、数人が上を見上げて驚愕している。 人々の視線を追うと宙に投げ出されたキララの姿があった。単に足を踏み外したのか、それとも行き場を失って迫る絶望から逃れようとその身を投げてしまったのか――考える間もなく、カンベエは人垣をかき分け、後を追って跳んだ。 しかし刹那、同じように飛び出して来た影が視界に写り、カンベエは息を飲んだ。噴き上げる風に揺れる淡い金髪に、涼やかな青い眼差し――
「――シ、…」
一瞬その姿が戦友のものと重なって、思わずその名が喉元まで上る。だがカンベエの方を振り向いたのは、甘爾な古女房の眼ではなく、不敵で蠱惑的な別の男の眼だった。 カンベエがキララに向かって手を伸ばし、彼女も必死に差し出されたカンベエの手を掴もうと身体を捻らせて手を伸ばす。数階層落ち、カンベエがキララの手を掴むと、橋の縁から見守っていた野次馬達から歓声があがった。 一緒に飛び降りた男の方へ目を向けると、彼は口の片端を吊り上げて、おもむろに袖口から小さく折り畳んだ無数の何かを取り出してカンベエ達に向かってばら撒いた。パッとひとりでに花開いたそれらは全て、ちょうど短冊程の紙である。淡く発光してすらいるその短冊の吹雪は、カンベエ達を守るようにその周りを舞い躍った。
「――“浮”」
その瞬間、奈落へ引っ張られる力が急速に弱まった。下から上へと過ぎていく景色の移り変わりは瞬く間にゆるやかなものとなっていく。十三階層に達する頃には重力はすっかり相殺されて、むしろふわりと浮遊する感覚すらあった。 驚き入りながらカンベエ達が十三階層の地面にに降り立つと、短冊は男の手元に戻り、役目を終えたとばかりに青白い炎に包まれて消えた。
「思わず飛び出したけど……キミ、死ぬつもりだったのかい?」
何事もなかったように、男がキララに声をかけた。彼女はあまりの出来事にすぐに言葉が出てこなかったようで、咄嗟に首を振って否定する。
「そう。じゃあ、あれは人さらいか何かかな」
呟くように言って、男は額に手をかざしてはるか上層を見上げていた。あれ、というのはキララを追いかけていた追手の事を言っているのだろうか。改めて見上げてみて、キララは背筋を凍らせた。十階層分は落ちただろうか――追手の顔はもう何処にあるかすら分からない。緊張で冷たくなった指先をきゅっと握り締め、緊張を解くように静かに深く息を吐く。
「帰れと言ったはずだ」 「いいえ」
厳格なカンベエの声に、彼女は今度は凛として返答を返した。
「おサムライ様を連れて帰る使命が私にはあるのです。こんな事では死ねません」
背筋を伸ばして顔を上げた彼女の眼は、生命力に満ちて輝いていた。 それを見たカンベエは、その瞬間、負けたと確信した。彼女の固い意志と固い決意に――そして、その固い信頼に。
(――それにしても)
カンベエは改めて男に視線を戻す。先程の妙な術は、いったいなんだったのか。 視線に気付いて振り返った男の脇腹には、背中まで続く程の大きな刺青が刻まれていた。何処かの民族紋様で描かれているのはどうやら狐らしい。 先日会ったあの“マタギ”の女と同じような、人を惑わすような空気を纏っていた。
「……おぬしは?」 「私かい?ただの通りすがりの流れ者だよ。さっきのアレについて聞く気なら、狐や狸にでもつままれたと思って忘れる事をお勧めするよ」
人を食ったようにニタリと笑い、さっさと踵を返して歩き出すその姿は、やはりあの女とどこか似ている。狐や狸に化かされたようなものとでも思って、だとか、狐や狸にでもつままれたと思って、などと言う辺りも同じである。こちらの男が狐だとすれば、あの女は狸だったのだろうか。
「それじゃ、くれぐれもお気をつけて。お嬢さん」 「――、ぁ」
カンベエの背後に居たキララは、声をかけられてはっとした。行ってしまう――そう思った刹那、彼女は駆け出していた。
「お待ち下さい!」
その行く手に立ちふさがり、彼を引き留める。振り子はどこかに落としてしまって手元に無いが、水分りの巫女としての直感がそうさせた。
※
mokuji bkm |