男は震える喉を掻きむしり、行き場のない激情を掃う様に哭く。愉悦と悲歎の絶叫が天に長く轟いた。



【巻き戻る。】



それは神であったかもしれないし、この奇異な瞳であったかもしれない。とにかく、何もかもを無くした可哀想な男に"何か"が気紛れに力を与えた。それが世界から観た事実。

「ならば世界を呪おう。生きとし生けるものを殺し永遠にその屍肉を引きずらせ死すべきものには死を与えず永久に廻す。弱きものは強く生き強きものを喰らえ。恐怖しろ恨め憎め慟哭せよ。どんなに嘆いても変わらない世界ならいっそ全て絶望に塗りつぶされてしまえば良い。俺は全ての理を許さない。俺は俺の持てる全を以てこの地を冥闇へと堕とすだろう」

俺はただ、呪詛を吐いた。瞳から融けだした闇で黒く濁りゆく天地。白い靄が覆っていく意識の中、遠くで誰かの慟哭が聞こえる。
力には代償が必要だ。花の散る月夜に彼が呟いたこと。最初から、俺は彼が憎かったのだ。そうでなくてはならない。復讐する力を。彼に復讐する力を。力には、代償が必要だ。だから、その代償はそのための。

「……の、死は決して無駄ではないのだ、と」

それが俺にとっての真実。



【巻き戻す。】



亡者たちは爛れた顔を歪め光を求めて彷徨い続けている。進路の妨げになるでもないそれを淡々と切り払い進む。その低く籠った唸り声が、ただただ耳障りだったので。

「まだ諦めないか」

彼の名前は忘れてしまった。何もない。瞳からどろりとしたものが融けだし続ける感覚は止まない。黒い階段だ。黒? ああなんだ、血か、俺の。豪奢な文様の彫り込まれた鎧を纏った英雄は黒い剣を抜き、積み上げられた屍体を蹴り飛ばし、その煌めく切っ先を階下の俺に向けた。

「俺は許さない」
「何を?民を騙していたことをか?」
「全てを」

彼の軍靴は異様なほど軽快に音をたてる。
彼は英雄だった。艶のある漆黒の鎧は斬撃を物ともせず、戦場を駆ける姿は気高く誇り高く、踊るように剣を振るい次から次へと首を飛ばす様を他国から死の神と称され恐れられる。

「全てを?」

対して俺はただの名前のない子供だった。ただ道に落ちていて、誰にも存在を覚えてもらえず通り過ぎられていくだけの子供だった。それも、もうずっと昔の話。彼に拾われるまでの話。けれど、餓死しかけていた俺を救ったはずの英雄は、本当は俺のような子供など汚らわしくて触れるのも嫌だったとこともなげに言うのだ。

「勇猛果敢にして清廉潔白。弱者にも平等に手を差し伸べるその姿は善そのもの。それが民の望む"英雄"なのだろう」

なら、それを実行していた私が責められる謂われはない。そう言って装甲の奥の喉を鳴らし、剣先を喉元に突きつける。

「お前はそんな私の何を許さない?」
「全てを。俺を拾ったことも俺にその手で触れたことも、そして、俺の弟達を殺したことも」
「戦争だろう」
「死なせたのはお前だ」
「忘れた、そんなこと」
「俺は忘れはしない」

眼前に迫った彼の剣を握りしめる。手の感覚。赤い液体が滴る。



(ある幼い日の春のこと。

『冥眼』

ぽつり、と。彼の篭手は乱暴に俺の頬を摘まんだ。黒いヘルムの窪みが俺の顔をじっと覗き込んでそんなことを言う。ほんのり暖かくなってきた風が吹いて、さやさやと緑が鳴った。

『……×××××も俺のこの目、きらいなのか?』

隣に積んでいた小さい花冠たちを彼の鎧に生える角に引っかけようと背伸びをして、指が震えた。

『ねえ。不吉?変?悪いもの?きらい?』

大人たちは皆口をそろえて俺の目を不吉だと言った。暗闇の奥で煌煌と煉獄の炎を燃やす奇異な瞳。災厄だ。災厄の前触れだ。不吉。悪しき物。彼もそう思っているのだろうか。俺の事なんて嫌いなのだろうか。ぎゅうと手を握る。

『不吉だ、災厄めいている、間違いなく悪しきものだろう』

彼は、俺をじっと見つめてそう言うだけで、俺の欲しい否定はくれない。)



「お前の考えは酷く甘い。お前は理不尽を知らない。全ては唐突に奪われるもの、そこに理由など求めては」

彼の軍靴が鳴る。英雄はいつの日からか鎧そのものの姿に。彼は何かを護るために人間であることを止めたのだという。顔も手も足も胴も固く冷たく殻に覆われて、彼が己に施した呪によって人外の力を持った。

「一を得るには、万の犠牲が必要なのだ」

剣を振り、血を払う。
俺たちが大人になった頃、彼は、どう贔屓目に見ても勝ち目のない、無謀な戦を世界中に仕掛けた。攻めては殺され、攻めては殺され、仲間の屍を異国の地に積み上げては逃げる日々。玉座は空席のままだったが、もはやあの国は彼の物だった。彼に異を唱えられる者など誰も居なかったのだ。何故そんな事をしたのか。今なら分かる、きっと彼は多分人間という人間が嫌いだったから。



(ある背の伸びた冬のこと。

『ジーン、ジーナム、兄さん』

俺には弟たちがいた。彼らは城に集められた孤児。俺と同じみなしご。そそっかしいアランに、しっかり者のベイジル、好奇心旺盛なセド、のんびり屋なドウェイン、そして不器用なエデン。

『ほれ、こんな感じ』

僅かに残った野草で輪を編んで見せる。へたりとしおれる草冠の不格好さに、本当は花で編むからもっと丈夫で見栄えがいい、と慌てて言い訳をする。

『ジーナム女みてー!』

アランとセドはゲラゲラと笑った。うるせえと言いながら小突くと、二人は大げさに倒れて見せてまた馬鹿笑いをした。ベイジルは二人を嗜め、呆れたようにため息をつく。ドウェインは空を見上げているし、エデンは真剣な目で草を編み続けている。ごくごく当たり前の、何でもない日。

『……幸せだ』
『なんか言ったか、ジーン!』
『何でもねーよ』

俺は似たような境遇の弟たちが大好きで、大事で、大切で、何に代えても守ってやりたかった。)

――それはなぜ?

(彼に与えられた不器用な××が、俺は大好きだったから。暖かかったから。俺も誰かを××してみたかった。手に足にじゃれつく子供たちは柔く温かい。見上げた灰色の空に細やかな六花が舞う。)



「俺は許さない」

そう、俺は彼を許してはならない。母国が怒り狂った諸国に攻められた終わりの日。あの日、俺の大事な弟たちは戦場で。いままでだまっててごめんなジーナム。まもれるなら、いいさ。もういくよ。逝ってくるよ。だいすきだったよ。だいすきでした。××してくれてありがとう。ジーナム。ジーン。兄さん。さよなら。

「俺は、絶対に許さない……!」

俺の大事な弟たちは、彼が呪法を施した生ける爆薬だった。



(兵器に向けて走っていく。爆ぜる。肉体は砕け散る。最愛の弟たちが命を賭して燃やした炎。アラン、ベイジル、セド、ドウェイン。そんな火よりもドラゴンの一息吹が繰り出す業火の方がよっぽど巨大なのは明白だった。お前たちの命の価値などたったそれだけだと、そう言いたいのか。悲しかった。悲しかった。悲しかった。それ以上に憎かった。喉を掻きむしって血が迸るほどに叫んでも、世界は何も変わらない。憎かった。全てに意味は無く、全ては無駄なのだ。俺には、何も、変えられない。)

――それから?

(力には、力を手に入れるには、代償が必要だ。それを最初に俺に言ったのは、彼で、俺にとってそれは揺るぎのない真実。頬に纏わりつく血と肉片はまだ生温かい。そう。もう誰も爆ぜない大地に遺された火花が舞う。)



「愚かだ」

兜の向こうで馬鹿にするように鼻が鳴った。

「忘れてしまえ、執着など、未練など何もかも失くしてしまえ、そうすれば楽だ。お前など、何処かに行ってしまえ」
「嫌だね」

莫迦だな、この期に及んでまだ俺を救おうとしているの。俺は踏み出した。

「なあ今日はどうやって殺したい?刺し殺す?嬲り殺す?犯し殺す?ああでも駄目だ、お前は俺を出来るだけ楽に殺してやりたいんだものな?本当は莫迦みたいに俺が大事だものな?」
「黙れ」

彼は俺を蹴り倒し、心臓にナイフの冷たい刃を突き立てる。肉と皮の裂ける音。血が音をたてて吐き出されていく。熱い。

「本当に莫迦だ、ジーン」

そして、真っ直ぐ、引いた。何故、お前は嗤っている?疑問を口に出す間も無く闇が塗りつぶす。




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