春暁の送日



我らが清き水の国の極北、古の獣が跋扈する冥眼の森の開いた口のすぐ傍。人の決して寄り付かないそこに、彼のあばら家は建っている。

「なら私が暁を殺した時の話でも」

真白いクロスの掛けられた食卓からはふうわりと温かな薫り。『魔術師』シェラサードは愉しそうに、甲殻で覆われた手のひらを開いて見せた。


黒い薄布で覆った頭には鈍く輝く二本の角。騎士の身に着ける甲冑のような肉体を持つ彼らは風鎧の民。本来なら、私たちのように柔い皮膚を持つ人間とは違う大陸に生きている民族だ。
殺す、という馬鹿馬鹿しい言葉に眉根が寄る。

「暁は死なない、そもそも生物でもないだろう」

馬鹿らしいと吐き捨てた私の目の前には豆のスウプと、甘辛くほろほろに煮られた鶏。釜から出てきたばかりのパンから薫る甘い小麦の匂いに、私の腹はどうしようもなく鳴ってしまう。シェラサードはくつくつと喉を鳴らして、杯に葡萄酒を注いだ。

「私は何でも殺すことが出来るんだ、魔術師であるのだからね」 

シェラサードは魔術師である。正確には魔術師であると自称している。何事も、魔術師であるのだからね、と言って終わらせる。魔術とは精霊や神の力を借りて行なう人智の及ばぬ行動に付く名であり、魔法とも外法とも名を変える。それらは所詮伝説や物語の中だけの存在で、今の時代、この世でそんな物を信じているものなどいはしないのだ。なんにせよ、非常に不愉快極まりない。くだらない。

「まあ確かに、魔術嫌いの君には面白い話ではないかもしれないが? どうかねグラディス」

布の隙間から漏れた低音から、彼が挑発するように笑っているのが分かった。続けていい、と無意識のうちに出た不機嫌な声。むくれながら私はパンに手を伸ばす。熱さに顔をしかめながらゆっくり割ると、その白い身からまた新しい湯気が立ち上った。

「ある夜明けのことだ。夜の帳が溶けていく。雪を失くしたばかりの大地と、そこに萌え始めた緑に影が生まれる。肌を刺す冷気と、靄を割って真直ぐに伸びる白い光。昇る日はほんのりと紅く、流れる雲は色を変える。私は枯枝を拾う手を止めて、顔を上げた。紫紺と紅に染まる空。私は、思わず手を伸ばして、それを切り取ってしまった」

そう言って鉤爪のような指が、食卓の上の――いつからそこにあったのだろうか――腕輪を叩いた。カツンと小気味良い音を立てたそれは金色。彫り込まれた文様の中央に、空色とも紫紺とも紅ともつかぬ、不思議な色合いのの宝石が嵌められている。

「そう、切り取ってしまったんだ。指先で暁をなぞり潰し掴み取りこの中に閉じ込めた。しかしね、これがいけなかった。止めるべきではなかったんだ」

シェラサードは一息ついて、もう一度腕輪を叩く。

「私は知った、美は一瞬であるからこそ美なのだと。止められてしまえば、それは死体だ」

彼は、銀のフォークで、切り分けられた鶏肉を刺し、運ぶ。口は無いはずなのに顔の前に翳された食物は消えた。

「こうして私の手の内で暁は死んでしまったという訳さ」
「……ただあなたが詩人だと言うだけの話じゃないか」

腕輪の石の中を覗き込む。透き通った薄紫とその中に閉じ込められた紅の雲のような模様と橙の光。こんなもの、それらしい石を見つけそれらしいことを言えば誰にだって可能な、ただのペテンだ。馬鹿馬鹿しいと吐き捨てて、私は杯に手を伸ばす。

「馬鹿馬鹿しくとも構うまい、これは君に」
「……は?」

眼前に差し出された手。その中には件の腕輪。

「今日は、女性に暁色の物を送る日だと聞いたのだがね」

何か間違ったのだろうかと首を捻るその姿に、思わずスウプをこぼしそうになった。



「そうか、昨日は暁送りの日だったものね」

――暁送りの日をご存じだろうか。

この国では、雪が解けきって春の訪れを肌で感じられるようになる頃、主神アウデロの持つ暁色の瞳になぞらえてその色の贈り物をする。様々な生命が芽吹き始める春、あらたな一年の始まりに、家族、恋人、大切な相手の健やかな日々を祈って贈る日。町は花束や装飾品を送り合う人々であふれるのだ。アウデロが貴方を見守ってくださいますように、災厄から護ってくださいますようにと。
私は実はこれがあまり好きではない。暁の色など人によって捉え方は違うだろう、と考えてしまうから。不確かなものは、変わってしまうものは、嫌いだ。私はふう、と投げやりに息をつき、椅子に四肢を投げた。

「こんな話をお聞きになって楽しいですか、陛下」

陛下の部分を強調して言うと、ちゃんと仕事はしているよ、と決算済の書類の山を示す。もたれかかった椅子の背は柔らかく、背中を預けると沈み込むように形を変えた。私の非礼をとがめるでもなく、この国の王はからからと笑う。カップを手に取って紅茶を注ぐその一挙一動は無駄に優雅だ。

「腕輪を渡された所以などお聞きになって楽しいのですか」
「とても楽しいよ君がそれを渡された時の面食らった顔を想像するととても小さな頃から怒りと呆れくらいしか表に出さない君の顔に人間らしい表情が乗ったところを想像しただけで私の中で君の好感度が少し上がったよ?」

そう一息でまくし立て、虹色の瞳を子供の様に細めた。確かに自分はとんだ鉄仮面だが、それにしても失礼千万この野郎である。相変わらず良い性格で、皮肉混じりにそう吐き捨て、手渡された白いカップの紅い水面を覗き込み、そっと息を吹きかけた。

「そも、君はそんなに魔術が嫌いなのに、どうして足しげく彼の家に通っているんだい?」

その言葉に、カップを落としそうになって、寸前で指に力を込めた。

「……敵状視察ですよ」
「へえ」

そう、魔術などという不条理かつ理不尽かつ理解不能なものと戦うためにはまず敵の事を知らなければならないからであって。私がわざわざあそこまで通うのにそれ以上の理由はない。そう、別に彼の作る食事が美味であるからとか言葉を交わすのが楽しいとかそういうふざけた理由ではないのだ、断じて違う。目の前の主君が昨日配りまわっていた暁色のジャムを添えた焼き菓子よりも、舌の肥えた女中たちにも評判の良かったあの菓子よりもあの『魔術師』の焼いた素朴なパンの方がずっと甘く感じるとかそういう理由ではけして。違うったら違う。我らが水の聖霊アニーの名にかけて、違うと断言する。カップに手を伸ばし、乱暴に傾けると、独特の甘味と苦味が同時に口の中に広がり、思わず顔をしかめる。

「でも嵌めるんだね」
「何を、ですか」
「その腕輪。魔術に関してなんだかんだ言いながらもちゃんと大切に嵌めてあるじゃないか」

君もなかなかに面倒な人だ、そう笑いながら虹瞳の王は私のカップに角砂糖をそっと放り込んだ。




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