春が来る。赤い鯨が雲を裂き、隙間から双つの太陽が顔を出す。また、私の愛しい川辺に春が来る。頬を擽る柔らかな風。日を受けて輝き流れゆく水面に石を一つ放り込み、彼女は口を開いた。


「はじめて会った時もこんな春だった。桜のつぼみがほころび始めたころ。

私は初めてのランドセルが嬉しくて、ぴかぴか真っ赤なそれを背負って川原を歩いてた。入学式はまだ先なのに、うれしくてうれしくて、この綺麗なカバンになら何でも詰め込めそうな気がして、うれしくて、つい、はしゃぎ過ぎて、行っちゃダメって言われてたのに水の流れるすぐそばにまで行って、ぬれた石に足を滑らせて。貴方に腕を掴まれた。それが最初。私は川に落ちそうになったこと、腕に衝撃が走ったこと、その両方にびっくりして、その人の顔をまじまじと眺めた。

『姉妹、か?』

私と違う濃い桜色の髪に私と違う褐色の肌。細身の、焦げ茶の上品な着物。その色合いは、ちょうど桜の幹と満開の花のようだった」


枝に止まった春告げ鳥たちが一斉に囀り、巨大な赤子が産声を上げた。春だ。永い眠りについていた春が再び生まれるのだ。春の眷属たちは、一斉に喜びの声を上げ、泣きじゃくる春の子をあやす様にさやさやと揺れ、騒ぐ。我らがこの年も再び春として生まれることに感謝を。私もふっ、と指先に息を吐き、満開の花を揺らした。
彼女は顎を上げ、今年も無事に生まれたのね、と呟いた。良かった、声は聞こえる。幼い頃、仲間外れにされるたびに口をとがらせていた彼女は、今は少しさびしそうに微笑むだけだ。


「私は、ただ家の近くの川原を歩いていたつもりだったんだけど、いつのまにか変な世界に迷い込んだみたいだった。鯨が空を飛んでて、太陽は双つあって、目の前には変な色の人がいた。その人の喉からは太い枝が生えていて、枝先に花が一輪咲いていた。
ここはどこだろう。家には帰れるのかな。私、さっき川に落ちそうになったんだっけ。じゃあ、私は死んじゃったのかな。この人は何なんだろう。パニックになって唇をかみしめて涙をいっぱい溜める私。その頬を、褐色の指が摘まんだ。

『人の子だ』
『え?』
『新しい姉妹が生まれたのかと思ったが、違うな。梅でも、菜の花でも、蒲公英でもない、ただの人の子だ……』

その人はあまり表情の見えない目を細め、少し落胆したらしかった。喉の枝先に咲いていた花がぽん、と音を立てて蕾に戻る。私は頬を摘ままれたまま、その人を見つめる。とても変だったけれど、良く見ると長い睫とすらっとした指を持ったとても綺麗なひと。彼女はしばらく私を怪訝そうに見ていたけれど、やがて、ふう、と息をついて唇を開いた。

『……八重桜』
『やひぇひゃくら』
『ふむ、人の子の言葉は変だな』
『ほっぺひゃ』
『ああ、私が頬を摘まんでいたからか』
『いひゃい……』

離された頬をさすりながら、その唇から零された単語が彼女の名前だとようやく気付く。面倒ならばヤエと呼ぶがいい、人の子よ。私を見下ろしながらそう言うとヤエは私の手を握り、有無を言わせず歩き出す。

『帰り道は何処だ』
『……ねえ、ヤエ、ここって、どこ?』
『此処は此処だな』
『わかんない』

頬を膨らませて見上げると、ヤエは片眉を上げた。優しく手をひかれて川原を歩く。あちこちで色とりどりの花が揺れていて、見上げれば、赤い鯨が空を楽しそうに泳いでいる。何か珍しい物を見つけて、ねえ見てヤエ、と指差せば、何だ、と応えて立ち止まる綺麗なひと。そういえば、いつの間にか涙は止まっていた。

『人であれ稀に迷い込む者は居る、らしい、が、帰り道が在れば何も怖いことは無い』
『帰れるの?』
『帰り道など、お前が帰りたいと願い、その先にお前の帰りを待つ者がいる限りは、在るものだ』

ああほら、あった。ヤエは目を細めた。しばらく手をひかれて歩いた先、すっ、と細い指でさし示された先には相も変わらず悠々と流れる川。ふっ、とヤエが息を吹くと、強い風にでも煽られたように桜が舞いに舞う。やがて桜吹雪が消えるころ、その水面の上には、砂利の敷き詰められた道があって。あんなもの来たときには無かったのに、と怪訝に思いながらもその道を走っていくと、家の近くの、普通の川原だった。見上げたら、太陽は一つ。振り返ってもヤエは居なかった。……お礼を言うのを忘れたことに気づいたのは、家に帰りついてからだったの。


二回目に会ったのは小学校に入ってからだった。通学路だった川原沿いの道路を歩いていただけだったのに、また、そこにはヤエが立っていた。周りには、白や紅の着物を纏ったお姉さんたちも、黄緑色した小さな鳥たちもいた。みんな驚いたような顔をして、私を見ていた。

『ヤエだーー!』
『……なんだお前、また迷い込んだのか』
『あら、わたくし此処で人の子見たの、初めて』
『春の子ね、春の匂いがする』
『せっかくだもの、遊んでおいきなさいな』
『姉さんたちはまたそういうことを……』

お姉さんたちはころころ笑って、小鳥はぴちちと羽根を羽ばたかせた。困った顔をしているヤエの着物の袖を引き、この前はありがとう、と言うと、彼女は、礼を言われるほどのことをしただろうか、と片眉を上げた。

『もうすぐ、春の子が生まれるから見ていけばいい』
『春の子?』
『人の世に、春に生まれる子供たち。そして、それは春そのもの。我らを春と愛でてくれる人の子らがいればこそ、我々春は、春なのだ』
『よくわかんない』
『そうか、けれど』

ヤエは私の頬のあたりに高い鼻を寄せた。

『お前も多分同じものだった、姉さんたちの言うように、春の香りがする』

ヤエの伏せられた睫ときめの細かい肌、甘い香りがすぐ傍にあって、何だか心臓がどきどきしてちょっと居心地が悪くて、でも嫌な感じじゃなかった。
それから日が暮れるまで沢山遊んで、皆と一緒に春の子が生まれるのを見て、大きな赤ちゃんに、びっくりして、おめでとう、って言って。ヤエが作ってくれた道を渡れば、元の場所に戻っていた。見上げたら、太陽は一つ。日は暮れていないみたいだった。

それから、私は春の間、ヤエたちのいるところに迷い込むことが多くなった。そこはね、きっと、はるのかみさまのせかいよ。私の話を聞いた祖母はそう言ってからから笑った。サヤがまだちいさくて、かみよのものとも、このよのものともさだまっていないからいける、かみさまのせかい。ふつうのにんげんにはわからないよう、このよにかさなっているの。すぐちかく、けれどもとてもとおく。かえってこられないのはおそろしいけれど、みちがわかっているのなら、とてもすてきなところ。サヤは、はるのかぜとおひさまのなかでうまれてきたから、いけるのかしらね。
 

『これ中学校の制服!』
『サヤ、大きくなった』
『背、伸びたでしょ!』
『いや、横に』
『ちょっと、何よそれーーーー!』
『幹が太くなるのは良いことだろう、何をそんなに怒る?』

毎年、春が生まれるのが待ち遠しかった。人間の友達とは違う、私の友達。私だけの、内緒の友達。会うのが楽しみだった。

『ヤエー』
『姉さんたちの方に行かなくていいのか』
『いいの。……ヤエといると楽しいから、いいの』
『そう、か』

白梅や紅梅の姉さんたちは私の話をいつもころころ笑って聞いてくれたし、鳥たちも懐こくて一緒に飛んだり跳ねたりするのが楽しかった。でも、私はヤエと話しているのが一番好きだった。綺麗な女の人の顔から男の人みたいな口調の淡々とした言葉が出てくるのが好きだった。真面目な顔でずれた答えを返してくるのが好きだった。興味が無いみたいな顔をして、私の話をちゃんと最後まで聞いてくれる横顔が好きだった。指に息を吹きかけて、桜を揺らす仕草が好きだった。嬉しいことがあると喉元の蕾を咲かせるのが好きだった。その全部が。その、全部が。

『私は姉さんたちのように華やかに笑いもしないし、鳥たちのように飛べもしないが、本当に楽しいのか』
『楽しいけど』
『そうなのか……人の子の感性は理解し難いな……』

ヤエは鈍感だから気づいてなかった、と思う。私も小さいころは気づいていなかったけど。私は笑ってごまかした。

『ちょっとヤエ、何で撫でるのよ、いつまでも子ども扱いしないでよね』
『……これはその、子ども扱い、いや、そういうつもりではなかった』
『じゃあどういうつもりだってのよー』
『それは、その……分からない……』
『えー』
『分からない、ということにしておきたい、ような』

学校の話、家族の話、部活の大会でどこまで行けたかとか、成績が帰ってくるのが怖いとか、そういうどうでもいい話。春になるまでは、次に会うときは何から話そうかってそればかり考えて。本当にいつもヤエに、皆に会えるのを楽しみにしてた。でもね。でもね、私、……大人になっちゃったの」


彼女は言葉を止め、息を吸った。


「今の私にはただの川原に見えるの、あんなに一緒に一緒に遊んで遊んで遊んだのに、かわいい春告げ鳥たちも綺麗な花の神の姉さんたちも空飛ぶ鯨も春の赤ちゃんも、ヤエもどこにも見えないの!」


サヤ、大きくなった。本当に大人になった。春告げ鳥たちは私の枝に止まり、悲しそうにぴぃぴぃ鳴く。大きくなった。紺の制服を纏って、紙の入った黒い筒を胸に抱き、彼女は、顔を上げる。鳥の声のする方へ。私の枝へ。

「ねえ、ヤエも、そこにいる? 聞こえてる?」

ああ、みんな、ここにいるよ。聞こえているよ、サヤ。君の眼からぽろぽろと零れる水を拭ってあげることはもうできないけれど。私が言葉を返すことはなく、鳥が鳴くのみ。

「せめて、最後に……」

聞こえているよ、サヤ。彼女は立ちあがる。

「好きだって、大好きだったって、言いたかった、八重桜」

彼女は、歩き出す。

ああ、知っていたよ、サヤ、私が君の手を取ることはなくても。喉の枝先に咲いた八重桜をそっと摘み、花びらを散らす。それはただの風に飛ばされた花びらと混ざり分からなくなる。ああ、そんなに唇を噛みしめて。大泣きする直前のその癖は大きくなっても変わらない。私たちも、春も、君が好きだったよ。いや。

喉元の蕾は枯れて久しい。私は、私は、君に出会うまで、自分がこんなに醜い花だと知りは……。

枝が震えた。ただの花の発するこんな言葉は、届いてはならぬ、と呑み込む。これでいい。鳥たちも、姉妹たちも、春の眷属たちはみな悲しそうに顔を声を歪める。花びらが散ってもまた春は巡る、彼女はまた大人になる。次の春が来れば我々の声すらも届かなくなり、もう彼女が此処に来ることはないだろう。生まれたばかりの春の子も涙を浮かべたままサヤを見ている。けれどそれでいい。それでいいのだ。彼女は人の世の存在なのだから。我々の世に居続けることは、大人になった彼女には害でしかないのだから。彼女には、人の世で帰りを待つ人がいるのだから。我々は一斉に口を開く。彼女の背に向け、声が届く限り。


幸せになっておくれ。
幸せになっておくれ。
幸せになっておくれ。
幸せになっておくれ。
幸せになっておくれ。
幸せになっておくれ。
幸せになっておくれ。
君の帰り道へ、帰るべき場所へ、戻りなさい。そして。


やがて彼女の背中が遠ざかる、不意に温かな風が吹いた。私の桜が一斉に揺れる。彼女は振り返る。黒い瞳に桜色が躍る。我々は口を開く。彼女に、声が、届く限り。醜い私はこの期に及んで、彼女の帰り道などなくなってしまえばいいと、帰る場所などなくなってしまえばよかったのにと、心のどこかで思っている。触れるたび、思っていた。けれど、こんな言葉は届いてはならぬ。届けてはならぬ。幸せになっておくれ。そう言う度、水が私の眼から頬を伝う。


幸せになっておくれ。ほんのひとときでも、君と過ごせて幸せだった。
幸せになっておくれ。やがて愛しい誰かと出会って、君と誰かに似た小さな命を産んで。
幸せになっておくれ。私たちとは歩めない君の生を、どうか、強く生きて。
幸せになっておくれ。君の世にも春が訪れたら、何十年に一度でもいい、どうか、思い出して。
幸せになっておくれ。悲しいけれど、さようなら。
幸せになっておくれ。さようならだ、愛しい春の子。
君の帰り道へ、帰るべき場所へ、戻りなさい。そして。どうか、幸せに、なっておくれ。


彼女の姿が消える。消える。それでも、双つの太陽はわれ関せずとばかりに私の愛しい川辺を照らし続ける。八重桜、と心配そうな声が私を呼ぶ。水が私の眼から頬を伝う。慰めるように枝先で囀る鳥たちと、肩を抱いてくれる姉妹たち。喉元の蕾は枯れて久しい。私の頭をよぎるのは楽しそうに話をする彼女の横顔。悔しさでぐちゃぐちゃに泣いた顔。鼻に私の花びらを受け、歯を見せて笑った幼い顔。去り行く背。そのすべてが。その、すべてが。私は口を開く。彼女に、もう、声が届かないから。


本当は、私も君が好きだったよ、サヤ。




さりゆく



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2015.0404 sato91go




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