終、幸を望む邪剣の話。


「お前、ついに俺を使わなかったな。」

時間が来てしまったのだと邪剣ヘルムートは言いました。大剣に弓矢に大砲に、邪剣は持ち主の意思に従い、その殺意の赴くままに多くを殺せるように、彼らに合わせてその身を自在に変えてきました。その変形を終えて初めて正式に邪剣との契約となるのです。そして、仮契約の期間は終わり、ついに形を変える期限が来てしまったのです。

「殺したいくらい悪い奴はいなかったのか。契約をしてくれないのなら、俺はまた眠りにつくことになる。それは嫌だ。そんなのは嫌だ。あそこは寒くて何もない。それに、それに、もう。」

こつん、と少女は邪剣の柄に額を当てました。少女は考えます。悪いことってどんなことでしょう。悪い人ってどんな人でしょう。いつも悪いことばかりを考えて、苦しむことも泣くことも空の高さも風の碧も知らず、ただ誰かを傷つけて笑う人でしょうか。少女が出会ってきた人たちはみな、自分を悪人だと言いました。でも、少女には誰も悪だと思えませんでした。
だからと言って、少女も邪剣ヘルムートとお別れするのは嫌なのです。口では悪いことばかり言って、その実は素直じゃないだけで少し間抜けで本当は優しいこの剣とお別れするのは嫌なのです。でも。でも。ぐるぐると少女が必死で考えていると、不意に邪剣が無い口を開きました。

「……歌うたいに、なりたいんだったな。」

少女はこくりと頷きます。少女は歌が好きでした。物語が好きでした。いつか見た、灰の鳴鳥のような歌うたいに憧れていました。けれど。

「……。」

けれど、少女には、声がありませんでした。幼い頃に母を亡くして以来、少女は土地神への贄として育てられていたので。どんなに脅えても助けを求められぬよう、毒で喉を焼かれていたので。

「……。」

少女の言いたいことはいつだって邪剣が代弁していてくれました。邪剣のおかげで、誰かとおはなし出来ることはこんなにも幸せなのだと知りました。けれど、歌など歌えるはずもないのです。何を今更言っているのだろう、と悲しい顔をする少女に邪剣は言いました。

「俺は寒くても、何もなくても、一本ぽっちでも平気だったんだ。邪剣だからな。邪悪な人間にどんなにひどい扱いをされても平気だったんだ。邪剣だからな。善良な人間にどんなに疎まれても平気だったんだ。邪剣だからな。俺と楽しそうに話すお前が変なんだ。お前が変なのが悪いんだ。」
「……。」
「俺は良いことが嫌いだ。聖なるものが嫌いだ。善が嫌いだ。綺麗なものが嫌いだ。邪剣だからな。人を殺すのが好きだ。好きだったはずだ。邪剣だからな。」
「……?」
「……でもな、けどな、何にだってなれるさ、そう思うんだ。邪剣だけどな、お前が望むものになら何にだって、俺は。」

そこで言葉を切って、黒い鞘をきらりと輝かせて。

「何にだってなれるさ、お前が望む物になら何だって。さあ俺を使うが良い。」

邪剣ヘルムートは、初めて出会った時と同じ言葉を囁き、照れくさそうに笑います。不思議そうな顔をした少女が、邪剣に手を伸ばした瞬間。

「……!」

ぱあっと光が散って、邪剣と鞘の形は変わり。やがて光が終息したそこにあったのはもう邪剣ヘルムートではありませんでした。どんなに触っても弾いてもヘルムートの声は聞こえなくなってしまいました。ヘルムートが居なくなってしまったのだという事を知って、少女はぽろぽろぽろぽろ涙を零しました。

少女はヘルムートだったものに優しく触れます。
少女はヘルムートだったものを優しく撫でます。
少女は精一杯天に願います。
少女は精一杯天に望みます。
それでもヘルムートだったものは、返事をしません。
どんなに頑張っても、返事をしません。
いつまで待っても、返事をしません。
あのぶっきらぼうな言葉が返ってくることは、ありません。
少女はぽろぽろぽろぽろ涙を零しました。

「…………わたしの、だいじな、ともだち……!」

少女には邪剣ヘルムートも悪だとは思えなかったので、彼だったものを抱きしめたままでどんどんどんと先に進むことに決め、ひとり涙を拭って立ち上がります。背後にはもと来た長い長い道が続くばかり。


少女の旅路は続きます。




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