「お前が大切だから、お前を一人にしたくないから、何が何でも、死に背いてでも帰ってきた。」 彼は嬉しそうに言った。私は嘘だと知っていた。水面に映る瞳は紫。植木鉢で赤い花は揺れる。もう、ずっとずっと昔の、どうだって良い話。
花に埋もれて、あと二日。雨。白い花、黄色い花、橙の花、背の高い花、低い花、美しい花、醜い花。皆が視界ではとらえきれないほど一面に広がり、雨粒に叩かれ揺れた。 珍しく雨であるから、町の隅、植木鉢を抱えて、廃棄場まで散歩に行った。ガラクタだらけのこの場所から見上げる雨空が好きだ。重く垂れさがる灰色の雲と地上に佇む混沌達とに挟まれ潰されて死んでしまう錯覚を見るから、これが課せられた罰だと思えば、少し罪悪感が軽くなるような気がして。
「あの世界大戦の後、勝利した人々はここに兵器を全て壊して、埋めて、棄てた。それは平和への決意であったのかもしれないし、同族同士で争いあった愚かな過去を直視することを恐れただけだったのかもしれない。けれどそれは大地の消化量を超えていて、今もなお、彼らは兵器であることも土であることも出来ずにここでくすぶり続けている。」
地面に置いた植木鉢の花が、真っ赤な花弁を雨風に揺らして語りかける。兵器だった残骸たちの表面は錆付き、蔦が這っていた。顔に手を当てると、そこにも似たようなものがまとわりついていて、思わず笑顔になる。
「いつか、土に還り、他の生きとし生ける物の為になる事が出来れば、幸福なのだろうな。」
花はガラクタどもを見、呟いた。その問いへの答えは生憎持ってはいないので、日課である手帳への記入を始める。ただでさえ暗い空が闇を濃くしてきたのを目の端で確認して、自分で書いた今日の日付に大きくバツ印を付けた。さあさあぱらぱら降る雨が、紙に染みて書き辛い。
「あと二日。」
その言葉に頷くと、あと二日、なのにお前は何故そんなに嬉しそうなんだ、と赤い花は少し焦った声音で問うた。答える義理はなく、静かに笑顔だけを見せる。花はそれ以上何も言わなかった。
花に埋もれて、あと一日。晴。 晴れの日は嫌いであるから、町の中央、墓場に行った。砂は吹きすさび、気管に容赦なく侵入してくる。一つ咳をすると、抱えた植木鉢の花が、大丈夫か、と声をかけた。墓場は相変わらず真っ白で、大小さまざまな石が足を踏み入れる隙間もないほどにびっしりと立ち並んでいる。不揃いで不完全な石畳だ。それらひとつひとつに水をまいて、丁寧に拭いていく。
「あの世界大戦が終わってから数年が過ぎたころ、病が流行った。いや、病と呼ぶべきだったのかは今も分からない。何か大いなる意思のようなものが人を罰そうとしているのだと、皆が噂し、嘆き、恐れた。とにかく、人々がようやく争いから解放された後、あの病が流行った。人はみな、次々と病に倒れて、変わった。人は恐ろしい速さで減っていった。」
何度も聞いたその話を、赤い花が飽きもせず語るのを聞き流しながら、考える。墓場だろうが何だろうがどこに目を向けても極彩色の花。背けるように目を閉じた。
「人はその天災に抵抗しようとした。世界中の科学者たちが血眼になって病を研究した。混沌から人々と己を救おうと、彼らは研究し続け、仲間が病に倒れて変わっても、彼らは研究室漬け。そしてある日、一人の男が抗体を完成させた。けれど、完成した病の抗体は一本。生き残れるのは、ひとり。」
この墓場と、兵器を棄てたあの場所との違いは、一体何だろう。皆人であることも土であることも出来ずここでくすぶり続けているのだから同じではあるまいか。こんな不道徳なことを考えても、その思想を咎め叱り、最後に悲しそうな顔をする彼はもういない。墓場の周りにも多種多様な花が所狭しと揺れている。彼は、花が好きだった。この風景に馴染まない麗らかな陽光と青い空が、大嫌いだ。
「あと一日。」
その言葉に頷くと、あと一日、なのにお前はなぜそんなに嬉しそうなんだ、と赤い花は怒りに震える声音で問うた。やはり答える義理はなく、静かに花を見つめる。いないわけでもない、か。思い出の中、はるか昔に確かに感じたはずの愛も憎しみも喜びも悲しみも、長い時の流れにすり減らされ、残ったのは懐かしさだけ。手帳を開いて、殴り書かれた今日の日付に大きくバツ印を付けた。感情は川を転がりぶつかり互いに削り合う石達のように小さく鈍くなり、すなわち「今」に向ける感情は、そう多くない。花は、憤懣やるかたなしといった体で、お前はなぜそんなに嬉しそうなんだ、と繰り返した。それはね。
花に埋もれて、今日。灰。白い花、黄色い花、橙の花、背の高い花、低い花、美しい花、醜い花。皆に平等に灰は降り積もる。顔に積もったそれを払おうとして、眼孔から生える蕾に手の動きを妨げられる。 今日は来るべき終わりの日で、このような悪天でも気分を害することはない。しかし晴れていたならば、星が見られただろうが。それが少し惜しい。けれど此処から観測出来ぬだけで、淀んだ空の向こうの星々は、この惑星の狂った今など知らずに今日も輝くことだろう。無知は美しい。何も知らないままで居られたら、な。けれど、もう無意味ないことだ。 植木鉢の赤い花は押し黙っていた。灰色からふわふわと灰が降り注ぐ朝、私は日課の手帳への記入をしようと開き、そういえばもうすることはない、と思いだし、閉じた。代わりに開くのは、何百年も閉ざしたままだった、私の口。
「今日が終わりの日。終わりまでもう幾許も時はない。最後の日だから、私の話をしましょう。せっかく残された時間を知っているのだから。未練なく逝けるように。」
花は返答をしない。随分と使っていなかった喉からはもう葉が生えてしまっていて苦しくて、私は咳き込みながら、続ける。
「私はあの世界大戦で家族をみな失った。けれど、戦争を終えた世界はそれを『悲しい過去』『反省すべき過去』というレッテルだけを押しつけて、誰かの悲しみと一緒くたにした。それに触れるたびに悲しげな顔を作って同情を示しては見せるけれど、個人の悲しみを理解しようとは決してしなかった。ただ、『二度とこんなことを繰り返してはならない』とお決まりのように言うだけで、私はそれが嫌いだった。大嫌いだったの。けれど、その思想をお前は決まって不道徳だと叱った。お前はきっと正しかったけれど、私はそれが嫌だった。そんなことどうだって良くて、私はただ、私の話を聞いてほしかっただけ、私の悲しみを少しでも共有して寄り添ってほしかっただけなのに。けれど、最後には決まって、傷つけられたのは私なのに、お前の方が悲しそうな顔をして頭を撫でるから、何故だろう、嫌いにはなれなかった。」
返答はない。植木鉢の赤い花は、蔦を葉を花を広げ、鉢に収まりきらぬほど巨大に成長していく。次第に人の形になる。彼の形になる。赤い蓬髪と、アーモンド形の目を持つ男は悲しそうな顔で、立っていた。彼と私の関係についていた名前はもう忘れてしまったけれど姿だけは鮮明に覚えている。ああ、昔のままだ。
「全部、お前がやったのでしょう?」 「……何を。」 「あの時、お前の言葉を借りれば世界大戦が終わって数年が過ぎたころ、あの奇病を、人を花に変える病をばらまいたのは、お前、なのでしょう?」
花だった男は目を大きく見開いて、押し黙った。私の足は根に代わり、大地に根差す。ぱき、と頬の皮膚の下まで根が伸び養分を吸い上げはじめる。どこを見ても花が揺れている。灰が積もった醜い花たちは、私たちを責めるように呪うように揺れている。
「最初に感染させたのは、お前の家族だった。耳から眼孔から人体のありとあらゆる穴から、茎が伸び、葉が茂り、花が咲いた。その死体、いいえ花を媒介に、町の住民に、国の民衆に、やがては世界中の人々が病に感染し、倒れ、咲いた。病を解明しようとする者が現れるたびに、お前はそれを花に変えて、消して。花には思考をする脳も誰かに伝える口もない。ただ揺れて枯れまた花を咲かせるだけ。人は、一人、また一人と消え、世界は色とりどりの花に包まれた。世界は花でいっぱいになった。不思議と花は途絶えることはない。まだ生きている人々はその視界いっぱいに広がる美しい光景をみて絶望し、いつ己がこうなるのかと恐怖し錯乱し、ある者は自ら命を絶ち、ある者は無差別に沢山の他人を殺め、ある者は財産を投げだし神に縋り飢えて死んだ。」
今でもなお、彼ら、色彩々の死体たちは人であることも土であることも真の意味では花であることも出来ずにここで何百年もくすぶり続けている。私はそれをずっと見てきた。ずっと。
「お前が作り上げた抗体、いいえ最初から持っていた抗体は一本。助かるのは、一人。お前が世界中に向けてその発表をした直後、その選ばれし一人になろうと、人はこの町にこぞって集まって、奪い合って、罵り合って、殺し合った。廃棄場からまだ使える兵器たちの残骸を拾っては、男も女も老人も子供も生きるために撃って殴って殺して殺して殺して。私はお前に地下に隠されて息を殺して。地上に出た時は赤い花と腐った肉だらけで、一人を、お前を除いて立っている人間はもういなくて。埋葬するにも墓石はもう足らなくて、適当に石を並べて並べて並べて。私はひたすらに石を並べて。」
綺麗だった私の町を取り戻したくて兵器をガラクタにして埋めるように現実から目をそむけるように、腐った肉塊を棄てて、血を必死で洗い流して。それでも咲き誇る花たちが目を逸らすことを許さない。その美しい風景に何度も何度も吐き気がこみ上げて、その度に生きている罪悪感と『悲しい過去』『反省すべき過去』から何も学ばない人の醜さと真綿で首を絞められているような恐怖で、私の心は削れて砕けてゆっくりと死んでいった。彼は全身を血で染めたまま、やがてその身が赤い花に代わっても、もはや意味のない言葉を吐き出して、殺されていく私を見ているだけ。
「抗体は誰の手にもわたらなかった。お前はそれを私に投与して、私の身体を作りかえた。あれは病の抗体じゃなかったんでしょう? 私は随分と長い間死ねなくなっただけ。終わりが先延ばしになっただけ。……お前も死ねないんでしょう? ずっと昔に、お前が花になった後、お前の家で残された記録を見た。戦時中、科学者だったお前の両親がお前を生物兵器の実験台にして、投与を。成功なのか、失敗なのか。お前は死なずに花になる。でもそれはあの病ではなく、ただ人としての身体を休ませるための眠りの期間。お前が花になってしまって、それでも言葉を話し始めて、私と共にいたけれど、お前が最初に私に言ったことは、嘘。お前は、まだ、死ぬことができないだけの、」 「やめろ!」
彼は赤い蓬髪を振り乱して、声を荒げた。
「……なぜ、お前は喜んでいるんだ! 死ぬんだぞ! お前はこれから死ぬんだ……そうだ、お前は死ぬ、なのに、お前はなぜそんなに嬉しそうなんだ……。」 「私は、人なの。」
彼は、分からない、と激しく首を振った。その目はひどく狼狽していて、その声はひどく震えていて、その手は行き場を無くして宙を掻いた。それ以上答える義理は無く、私は笑顔を作って見せるだけだった。彼は、それを見て、諦めたように目を逸らすと、顔を歪めた。私の身体中から青々と葉が茂る。何故私が死を望まないと思ったのだろう? 何百年と続く生は、人の心と身にはただただ辛いだけだった。有り余る時間で研究記録を読み漁り、そこから死ねる日を計算して、指折り数えて待っていた。何故、分からないのだろう。何故、分かってくれないのだろう。でも、私が悲しかった、という事実だけ分かってくれたのなら、それでいい。もう、それしか望まない。
「俺は、全てが、憎かった。」
彼は、深く歪んだ顔で、ぽつり、と呟いた。
「そう。」
私はそれ以上何も聞かなかった。ぱら、と蕾がほころび私の花が開く。彼に私の事が分からないように、私にだって彼のことは分からないのだ。彼も語りはしないだろう。もう、全ては終わったことだ。もう、どうだって良い話。 ぱら、と私の眼孔から花々が開く感覚が続く。ぱら、ぱら、ぱら、ぱら、ぱら。間も無く私は思考を止め、ただの花となる。私は止。ぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱら、紫の小さな花が一斉に体中から溢れ出す。そうか、これは、私は鳥兜。鳥兜に、なるのか。彼は、この猛毒の冷血な花言葉と意外な可憐さ、そんな二面性が好きだと少し陰のある笑顔で。彼は、花が、好きだった。お前の瞳の色だ、と彼は顔から陰を消して。ありふれた、晴れた日のこと。ああ、私は、どうでもいいことを、覚えているな。こんな些細な思い出を、私は幸福と名付けたのだろうか。もしも、もしもあの星々のように無知で居られたら、この灰色の数百年も、赤い花との、彼との幸福な思い出で満ちていたのだろうか。もしくは私がまったく彼と同じ存在で、彼と共に死ねたなら。ぱら。花が咲く。私は紫。彼は嫌だやめろいくなと首を振り慟哭し私に手を伸ばす。
「行くな、いくな、逝かないで、くれ!」
勝手なことを。孤独の星に私を独り閉じ込めて、私の心を殺したのは、私に、一番残酷な方法で死を与えたのは、お前じゃないか。彼の手を振り払い彼の言葉を振り切り、私は、待ち焦がれていたそれを迎え入れる。
「嫌だ、いやだ……!」
ああ、そういえば、何故、私は知っていたことを、彼がすべての元凶であったことを、他の誰にも告げなかったのだろうか。そうすれば彼は捕らえられ抗体は複製され、今もこの星で人々は生きていたかもしれないのに。それが、家族を亡くし一人さびしく生きていた私と、そんな私とずっと共にいてくれた彼への情、だったのだろうか。それとも、私も、心のどこかでは、二人だけでいられる世界を、望んで。終わってしまった以上、すべては、何の意味もない話。ぱら。最後の花が開き、天から降るはずのない水滴。それが、薄れてゆく意識の向こう、その雫が己の花弁に落ちるのを感じながら、もう無い瞼を閉じる。彼に奪われ彼に与えられた止はそっと私の全てを止め、彼に奪われ彼に与えられた紫が優しく私の残骸を包み込み、私は、死。
あなたは わたしに し をあたえた
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サークルに提出した原稿+加筆修正。
2014.0403.sato91go
(main)
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