「大好きだった」
ネルネは泣いた。空色の目を開いてポロポロと泣いた。彼に向かってポロポロとないた。
「大好きだった」
ネルネは泣いた。 ネルネは森に住む怪物だった。物心つく前から森の小屋でひとりきりだった。ネルネはひとりで黙々と、森で木の実を拾い、湖で水を掬い、大きな葉で自分の身を覆った。寒い夜には、自分の膝を抱えて眠った。それが当然だから、特に何も感じなかった。ネルネは他とは違うから、怪物だから、他の誰かとは一緒に暮らせないのだと、ずっと思っていた。
「大好きだった」
ネルネは泣いた。 ある雨の日、彼がネルネの住処にやって来た。雨に濡れて汚れた彼がかわいそうで、ネルネはそっと小屋の扉を開けた。
かわいそうに。きみみたいな、ちいさなふつうのこが、なぜこんなめにあわなければならないんだ。
彼はぼろぼろのネルネを見るなり泣いた。ネルネは初めて「泣く」という行為を目の当たりにして、しばらくぼうっとながめていた。彼はぐしぐしと腕で目元をぬぐって、ネルネの頭をそっと撫でた。 それから彼はネルネの小屋に住みつくことにしたらしかった。ネルネは彼に名前を貰った。彼は、言葉を話さない怪物ネルネに人間の言葉で根気強く話しかけ、森で狩りをし、湖で釣りをし、毛皮でネルネの服を作って着せた。寒い夜には、毛皮を持たないネルネを抱きかかえてあたためながら眠った。 彼はとても泣き虫だった。ネルネが転んでケガをしたといっては泣き、ネルネが熱を出したといっては泣き、ネルネが湖に落ちたといっては泣いた。ネルネは特に何も感じなかったけれど、彼は、しんぱいなんだ、と泣きながら怒った。
ネルネはぜんぜんひょうじょうきんがうごかない。それでも、なんとなくわかるからふしぎだな。
彼は時折そう言って、可笑しそうに笑った。彼のその表情を見るたびに、何だか頬がぽうっとして心地よかったので、ネルネは「ひょうじょうきん」とやらをずっと動かさないままでいようと思った。
「大好きだった」
ネルネは泣いた。 ネルネは自分の変な姿がとっても嫌だった。彼と違って、目も腕も足も二つだけで、頭以外の場所に毛皮を持たない身体はつるつるとしていて嫌だった。ネルネは森の怪物だから、どうあがいたって彼と同じ姿にはなれないのだろうけれど、せめて背だけは彼に並びたいと思っていた。ネルネはたくさんたくさん食べた。好き嫌いをしては大きくなれないと彼が言うから、大嫌いなきのこも野草もたくさんたくさん食べた。
おおきくなった、ネルネ。おおきくなった。
ネルネは彼の言葉に首を横に振った。確かに大きくなったけれど、ネルネの手足は何だかすらっと細くて折れそうで、相変わらず頭にしか生えていない毛皮も長くはなったけれど何だか一本一本が細くなった気がした。それに、確かに背丈は伸びたけれど、彼にはまだまだ届かない。彼とはぜんぜん違うのだ。ネルネは何だか空しくなって、全身をふさふさとした毛皮に覆われた彼の、一番大きな目を見上げて、どうしてネルネは怪物なの、と聞いた。
……ほんとうはにんげんたちのところにきみをかえしてあげるべきなんだろう、すまない。でもそれはいやなんだ。あえなくなるから。すまない。なかまのところにかえしてあげられなくてすまない。
彼は泣いた。六本の腕でネルネを優しく抱きしめて、いつものように全身のあちこちに隠れた目からたくさんたくさん涙を流した。ネルネには彼の言ったことがよく分からなかった。ネルネのおうちはあの小屋なのに、他のどこに帰るというのだろう。ネルネの帰るところは、ネルネがただいまと言って彼がおかえりと返してくれるあのおうちなのに。そう言うと、彼はまた泣いた。
すがたはぜんぜんちがっても、わたしはだいすきだよ、ネルネ。こわれてしまいそうな、そのかみもてあしもぜんぶ、すきだ。こんなわたしといっしょにいてくれて、ただいまといってくれるきみがすきだ。きみが、だいすきだ。
その言葉に、ネルネは、生まれて初めて、自分の「ひょうじょうきん」が勝手に動くのを感じた。ネルネがしまったと思う間もなく、彼は全部の目を一斉に大きく見開いて、はじめてネルネがわらった、そう言って、今まで見た中で一番盛大に、ぐしゃぐしゃに泣いた。
「大好きだった」
ネルネは泣いた。ポロポロと零れる涙は頬を伝って落ちる。彼に向かってポロポロと鳴いた。 とてもよく晴れた日だった。その日のお日さまは、それまで何千回と見てきたどんなお日さまよりもずっと綺麗だったことをネルネは覚えている。ネルネは身体をベッドに横たえて、窓の外を見ていた。約束をした。指切りをした。無知な怪物ネルネは、指を切るの、とそう聞いた。彼は笑って、そんなことはしないよ、と毛むくじゃらの大きな掌で、皺だらけになったネルネの頬をそっと包んで、聞いたこともないくらい震える声でこう言った。ネルネは覚えている。一言一句違わず覚えている。
やくそくをしてはくれないだろうか、ネルネ。わたしはきみがだいすきだから。ずっといっしょにいるというやくそくを、きみたちにんげんはけっこんというんだろう? わたしと、けっこんしてはくれないだろうか。わたしは、きみがだいすきだから。きみをひとりじめさせてはくれないだろうか。ずっとずっと、いいたかったんだ。
彼の言うことは難しくてあいかわらずよくわからなかったけれど、ネルネも彼が大好きだったから、もうほとんど動かなくなってしまった首を縦に動かして、彼が教えてくれたように、彼の大きな指と自分の小さな指を合わせた。彼はとっても喜んで笑って、色とりどりの花をたくさん摘んできては、ネルネの頭に飾った。
ネルネ、きみをかならずしあわせにする。だいすきだ。
もう一度、ネルネは首を縦に動かした。彼は嬉しいと言いながら、体のあちこちにある目からたくさんたくさん涙を流して、毛皮をしとどに濡らしていた。悲しいの、そうネルネが訪ねると、うれしいときにもなみだがでるんだ、と彼は泣いた。それが何だか可笑しくてネルネが「ひょうじょうきん」を動かすと、ネルネがしまったと思う間もなく、彼は、ネルネが久しぶりに笑った、と泣いた。
「大好きだった」
ネルネはポロポロと泣いた。彼に向かって、ポロ、と鳴いた。ネルネは、彼がたくさんくれた大好きを繰り返すと、彼の名を呼んだ。
「ポロ」
ポロは泣いていた。彼の目の前には、寝台に横たわるネルネ。ネルネは、ポロに手を伸ばす。
「本当だ。嬉しいときにも涙が出るの。ずっと、嬉しかったの。大好きだったから、そばにいられて、そばにいてくれて、嬉しかったの」
ネルネは泣いた。空色の目をだんだんと細めて、ポロポロと泣いた。いかないで、いくな、おねがい、と繰り返す彼を見て、ネルネは、ああそうか、もうすぐなんだな、と思った。だから、「ひょうじょうきん」が緩んでしまうんだ。彼を泣かせてしまう自分の「ひょうじょうきん」が、緩んでしまうんだ。ネルネは彼の笑顔が大好きだった。でも、それ以上にネルネは、彼が自分の為に零してくれる優しい涙が、大好きだった。大好きだった。
「ネルネも、ネルネもほんとうにきみが大好きだよ、ポロ。ずっとずっと、大好きだった」
ネルネは笑った。ポロの目元をそっと指で拭って、それを最後に、小さな手を力なく落とす。ネルネは頬に落ちるあたたかい雫を感じながら、空色の目を静かに閉じた。
ネルネは泣いた
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