【世界は巻き戻る。】



俺は一人だった。何処からか火の手が上がっている。篝火のようにぱちりと爆ぜるなんて生易しい物じゃない、炎は轟と吠え唸り傲慢に全てを喰らう。ドラゴンだ。何処からかそんな伝令が聞こえた。ドラゴンか。そうかではもはや唯一此処に来させなかった末弟も。敵の砲の唸る音が一斉に轟く。天を仰ぐ。煤けた天井。煙の匂い。ああ、俺は独りだ。独りきりだ。重い身体を引きずる。剣は捨てる。カラン、と大理石の間に乾いた音が響く。愛しい弟達はもうまともな亡骸も綺麗な死に顔もなく只の肉片と成り果てた。せめて美しい姿で葬ってやりたかったと思う。日の当たる場所で弔ってやりたかったとそう思う。そんなことを思う。徐々に思考に靄がかかる。

(力には……)

ああ、彼が何事か叫びながら駆け寄ってくる。そう言えば彼の顔を見ることは終の終までできなかった。彼は何を思って誰を想ってその力を手に入れたのだろう。ぼんやりとしてきた視界を揺らしながらそんなことを考える。兄弟達はもういない。この国も滅ぶだろう。俺は、何を思って誰を想って戦っていたのだっけ。


全てを失うに足る理由が欲しい。


鳴る筈のない鐘が鳴リ響く。俺の頭の中、鐘が。鐘が、罰しろと。殺せと。誰を?そんなの決まっているじゃないか。じくじくともう一つ心臓ができたように腹が痛む。全てを。鐘が嘲笑う。瞳からどろりとしたものが融けだし続ける感覚が止まない。

(力には、代償が必要だ……)

冷たい刃を首筋に当てる。やめろと誰かが叫んだ気がした。刃を引く。倒れる。瞳からどろりとした闇が融けだし続ける感覚は止まない。震える手が戸惑うように伸ばされてきつく抱き寄せられて髪がその凶器めいた手で不器用に撫ぜられて途切れ途切れに名前を呼ばれて、そして、

『お前だけは何に代えても守ってやりたかっ



【世界を巻き戻す。】



「まだ諦めないか」

彼の名前を忘れてしまった。何もない。瞳からどろりとしたものが融けだし続ける感覚は止まない。黒い階段だ。黒? ああなんだ、血か、俺の。積み上げられた屍体を蹴り飛ばし、英雄は黒い剣を抜き、煌めく切っ先を階下の俺に向けた。

「俺は許さない」

(俺は彼の名前を忘れてしまった。大切なことを忘れてしまった。)

「俺は絶対に」

決して許さない。何度死んでも巻き戻る世界。何度死という安寧に包まれても、無理やりそこから引き摺り出され立つことを余儀なくされる世界。終わることは、俺が許さない。これは罰なのだ。最初から憎かったから。最初からずっと彼が憎かったから。弟たちを奪った彼が憎かったから。だから彼に罰を与えるための力が欲しかった。あれは代償だ、そうだろう?

「そんな下らない事など、忘れてしまえ」
「……嫌だね」

お前にとって俺が一番大事だというのなら。××していると、そう囁くのならば。これがお前にとって最も相応しく最も重い罰だ。

「全て忘れて全て許して死ねば或いはお前だけはここから、……お願いだ、ジーン」

ああ、莫迦だな、まだ俺を救おうとしているの。彼の言葉と共に突き出された刃に映る俺の瞳、それは冥い、一片の光すら射さない冥府の底の闇。冷えた喉に金属がずぶりと突き立てられる感触、引き抜かれる。

「苦しめばいい永遠に苦しみ続ければいい俺を救おうと藻掻き続ければいいその魂が朽ちその心が砕けて跡形もなく散るまでずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっと」

ずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっと俺は忘れず俺は許さず永遠に廻る。白い靄が覆っていく意識の中、遠くで誰かの慟哭が聞こえる。

『ジーン』

(俺の欠片は泣いている。なんて可哀想な男だ、なんて、可哀想な。)

『ジーン、ジーナム』

(最期に呼ばれた名前と触れた指先の優しさで出会った時からずっと彼の為にあった心臓が軋んで悲鳴を上げて黒い涙が頬を伝ってでも俺は彼だけの物にはなれない、だからそれに気付かないふりをして目を閉じて耳を塞いで、それでも俺、は。)

「喜べ俺の可愛い弟たち、お前達の、死は決して、無駄では、なかった、ぜ!」

血に濡れた指を彼の頬に添えて微笑めば、……何故、お前も嗤っている?雨が降り始める。疑問を口に出す間も無く、瞳から流れ出す闇が轟と音をたて意識を塗り潰す。



【冥路は巻き戻る。】



(ある幼い日の春のこと。

『冥眼』

ぽつり、と。彼の篭手は乱暴に俺の頬を摘まんだ。黒いヘルムの奥の目が俺の顔をじっと覗き込んでそんなことを言う。ほんのり暖かくなってきた風が吹いて、さやさやと緑が鳴った。

『……×××××も俺のこの目、きらいなのか?』

隣に積んでいた小さい花冠たちを彼の鎧に生える角に引っかけようと背伸びをして、指が震えた。

『ねえ。不吉?変?悪いもの?きらい?』

大人たちは皆口をそろえて俺の目を不吉だと言った。暗闇の奥で煌煌と煉獄の炎を燃やす奇異な瞳。災厄だ。災厄の前触れだ。不吉。悪しき物。彼もそう思っているのだろうか。俺の事なんて嫌いなのだろうか。ぎゅうと手を握る。

『不吉だ、災厄めいている、間違いなく悪しきものだろう』

彼は、俺をじっと見つめてそう言うだけで、俺の欲しい否定はくれない。)


(けれど、白い花冠をその手に取って俺の頭に乗せ、そっぽを向いて。その瞳が不吉でも災厄でも悪でも何でも、と珍しく焦ったように早口で。)

――それから?

(小さく小さく呟いた。

『……それでも、私はお前を××している、ジーン』

それだけ。それだけ、本当に、小さく小さく呟いた。その言葉は、上辺だけ取り繕った言葉よりもうれしくて。ひとりぼっちだったこどもにはずっとずっとうれしくて。俺は。俺も。思わず抱きついた彼の身体は固く冷たい。でも。雲一つない蒼い空に崩れた白い花が舞う。)



ジーナムは静かに瞼を閉じる。
しばしの安寧。されどここは出口ではない。




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