日々は過ぎてゆく。
「…………ッふ……」
ミュゼが、泣いていた。白昼の目映い日差しの中、岩影に隠れて声を押し殺して、泣いていた。ムーンウォーカーに気付かれたくはなかったのだろうか。そんなこと、出来はしないのに。
「俺が悪いんだ……俺が……」
ごしごしと腕で目元を乱暴に拭って眼鏡をかけたミュゼは、ほとんどいつもの顔に戻っていた。それでもムーンウォーカーの目は勝手に彼の赤い目元をとらえてしまう。見ては、いけない。紫の異形はぎゅうとすべての目を閉じて、そうっとその場から立ち去った。
<メモリーの。中。>
「俺は、分からないものが、好き」 ミュゼの一番探しているものの場所だけがどういう訳かミュゼにはわからない。わからないからこそさがしているのだと。そう、語る。 「俺は、××が、嫌い」 聞き取れない。ミュゼの笑顔が、いつもと何処か違って見えた。
<そういえば。ミュゼの傍には。いつも。鏡がない。>
「ここも駄目だった」
日が沈み、優しいオレンジが世界を去ろうとする頃、ミュゼは眼鏡を乱暴に投げ捨てて呟いた。先ほどまでの温かい色の光とは裏腹に冷たく張りつめていく空気の中、彼はムーンウォーカーの太い首に腕を回す。
「んむ?」 「……ムーンウォーカー、抱っこ」 「ミュ、ゼ?」 「何だろうな、子供にイケナイことを教えてる気分」
そう言って薄く笑う。殴る、突き刺す、砕く。左手は鈍く冷たく輝くドリル。これに巻き込まれたら今自分を抱きしめているこの生命体は、呆気なく粉微塵だろう。それなのに、彼の右手はなんのためらいもなくそこに触れる。ゆっくりとその螺旋に指を伸ばす。ムーンウォーカーが今これを回転させればエッジは一瞬で彼の宝を奪うだろう。それなのに。
「お前のこれは綺麗だな」
つう、と螺旋を描く溝を節くれだった指がなぞっていく。そんな場所に痛覚や触覚などないはずなのに、その感触がどこかくすぐったくて。
「ミュ、ゼ」
訳の分からない激情で全身が震えるほどだ。行き場のない尻尾をぶんと振り、一斉に六つの目蓋を伏せる。
「ミュゼ。は」 「……『俺が怖くはないのか』」
いつものように先回りされてしまった言葉に一呼吸おいて頷くと、ミュゼは怖くないよと言って、紫の肩に顔を押し付けた。
「怖くないよ。だって俺は、……”俺”が、一番気持ち悪くて怖いから」
それ以上に怖い物なんてない、とそう。そう呟いて、ムーンウォーカーを一層強く抱きしめた。
「だって俺は汚いだろ?相手が知られたくないことも分かってしまってそして俺はそのことに気付かない。知ってることをそのまま口に出せば傷つけるんだよ、そして、怖がらせる、気持ち悪いだろう?」
声が、震えている。それが分かってもムーンウォーカーは固まったまま動けない。ミュゼは、何を言っている?
「俺が一番汚いから、他のものは全て美しく見える。だから憧れる、そして妬む。そうやって俺の中にどろどろ汚いものがたまっていって、繰り返し」 「分から。ない」 「分からなくていいさ」
お前には永遠に分からなくていい、と。ミュゼは肩に顔を埋めたまま、消え入りそうな声で、泣きそうな声で。
「俺は、何よりも、俺が、……嫌いだ」
――ああ、そうか。異様だと、恐ろしいと。そう言われてきたのは思ってきたのは何もムーンウォーカーだけではなかったのだ。彼は、彼も、どうしようもなく異形のものであったのだ。
「ミュゼ」
その涙を拭ってあげたい、ミュゼがしてくれるように頭を撫でてあげたい、そう思うけれど。ミュゼは柔らかいから、きっと傷つけてしまうから、あの岩や花のように壊してしまうから、手は動かせない。だから。
「ミュゼが。俺の。言いたい。こと。分かる。嬉しい」
ムーンウォーカーはミュゼが何であろうとかまわない。この拙い言葉から拾ってくれればいい。いくらでも読んでくれていい。伝われば、それでいい。
「ミュゼの瞳は。綺麗。……ミュゼは。綺麗。」
ミュゼが顔を上げる。その甘い色の瞳には薄く涙の膜が張っていて光を閉じ込めてゆれる。綺麗などという形容詞は人間の雄に使うものではないのではとも思い返すが、いや、もう構うものか。彼は綺麗だ。この人工の心臓が歓びでかきむしられるくらい、綺麗だ。
「ミュゼ」
"口"を、開いて、顔だけを動かして、微動だにしない彼の唇に、それを押し付けた。
「……な」 「んむ?」 「……な、ななななな、な!」 「ミュゼ?」 「だ、だめだろ」 「?」 「駄目だろ、何で、分かってたのに何で、何で俺は避けなかったんだよ、分かんねぇ!!」
あわあわとひとしきり手を振って暴れ、茹った顔を手のひらで覆った。
「ってか、ムーンウォーカーはまだ 3歳なんだぞ、手出したら駄目だろ俺……!」
ムーンウォーカーは首をかしげた。
「駄目?」
駄目とは何だ。身体の中で一番柔らかなここなら、おそらく彼を傷つけまいと思ったのだが。痛かったのだろうか。違うそういうことじゃない痛かったんじゃない、とミュゼは顔を赤く染めたままムーンウォーカーの一番上の目を見つめ、ややあって、そらす。
「……違うけど、駄目だ」 「何故」 「こっ、こういうことは好きな相手とするもんだから、な!」 「俺は。ミュゼが。好き」 「なっ!」 「何故。驚く?」
触れている生身の部分が、ミュゼの体温の上昇を感じとる。わかっていたんだろう?と囁けば、甘い色の、アザレア色の瞳が大きく開いて揺れてムーンウォーカーを映す。そこに映る自分、紫の肉と鋼鉄で出来た己はやはり人間とは違う生き物だと、異形なのだと、彼は思う。殴る、突き刺す、砕く、エトセトラエトセトラ。M-00N2Kはひどく単純で暴力的な動作だけで出来ていたから、だから脆い彼に触れてはならないと。それでも。
「練習をしよう。何度でも。何度でも。触れたい。抱きしめたい。涙を拭ってあげたい。ミュゼ」 「な、に」 「好きだ」
ミュゼ。彼は鋼の頭部を手のひらで包んで、指でその存在を確かめるようになぞって、ぽろりと一粒涙をこぼした。それを境に、ぽろぽろぽろと彼の両の目から涙が堰を切ったように溢れ出す。ミュゼ。ミュゼ。ミュゼ。泣かないで。悲しい?違う、違うって、悲しいんじゃないんだムーンウォーカー、悲しいわけじゃない。子供の様に声を上げて泣きじゃくる彼の肩の向こう、夜の帳を纏った空に、ひとつ、星が流れる。
「見て。ミュゼ」
この世界は、美しい。ムーンウォーカーはミュゼの手に頭部を摺り寄せて、わらった。
<メモリーの。中。>
記憶の奥深く。 宝物には鍵をかけて閉じておこう。これは自分一人のもの。無くしてしまわないように、壊してしまわないように。いつでも触れられるように、大切に綴じておこう。 いつか。いつかどうか彼が心から笑えますように。彼に優しい世界になりますように。彼が心から彼を愛せますように。人間のように手を合わせて祈る事など出来ないけれど、あの流れる星にそっと願いを掛けておこう。 この世界は、彼の手が示してくれたこの世界は、彼の謳う言葉で彩られたこの世界は、美しい。
<そして。静かに。記憶を。とじる。>
ムーンウォーカーが”ミュゼを抱きしめる”という動作を完璧に会得するのは少し先の話。ずれた眼鏡と真っ赤になった耳朶、一瞬見開かれ静かに細められるアザレア色の瞳、そして花の綻ぶような笑顔。腕の中にあるそれを記憶に刻み付けるように、六つの目全てに彼を映す。
「大丈夫。ちゃんと。鍵を。かけておく」
月明りの下、アザレアが微睡むように揺れる何度目かの春のこと。ミュゼ、と耳元で囁いて、一度大きく尾を振って。ムーンウォーカーはミュゼを優しく抱き寄せると、その唇に柔らかく口付けを落とす。この世界は美しい、はにかんだミュゼの魔法の言葉は、夜に白く尾を引き、月光の中に溶けていった。
月とアザレアは賛歌をうたう
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「人外×人で力が強くてなかなか触れられない系人外の話」というお題を頂いて書かせてもらったものです。……半年以上前にリクエストいただいたのに今書き終わるなど。その上微妙にお題に添えてない気がするなど。しかし楽しかったですいつだって趣味全開です。
2013.0428 sato91go
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