――壊れた世界で生きていた。

手のひらからは赤いコード。固まり始めた顔の周りには紅薔薇の蕾。蝋細工のような光沢を持つそれを、五番目の腕――つまり上から三対目の左腕――でそっと撫でると、彼はくすぐったそうに笑いながら、初めての言葉を紡ぐために口を開いた。

「俺は丸を作り続けた。その日がいい日だったなら、一日の終わりに丸を作るんだ。人差し指と親指でさ。それを見せるとロゼはひどく喜ぶもんだから、ほんとはさ、あんまりいい事なかった日でも無理して丸を作って見せてたなんてこともあった。ロゼの喜ぶ顔が、俺は好きだったから。
ロゼは俺の保護者。紅い目の、いつも背筋のしゃんと伸びた男だった。洗濯は苦手で料理は得意。冷たいものが好きで熱いものが嫌い。それでだいぶ過保護。俺は幸せじゃないといけないって口癖みたいに謳ってた。

俺の話をしよう。

俺は人間だった。親は知らない。親は暖かくて大事なものだって本で読んだけど、俺にはロゼが居たから別にそれで良かった。ロゼは俺が迷子にならないように手を繋いで歩いてくれたし、怖い夢を見た夜には眠れるまで抱きしめていてくれた。ロゼの手は冷たかったけど、暖かかった。
人間はいつかみんな塔になるってロゼは言った。外に生えてる塔の群れは、人間の"大人"たちだと。俺もいつかはああなるって。

『次第に固まり、最後には塔に』
『この世界ではもう人間は生きるのを止めないといけない』
『その代わり最後にひとつだけ、塔はお願いを叶えてくれるわよ』
『だから決して、悲しまないで』

人間の顔をした灰色の塔は口々に言った。その声もやがて灰色に呑まれて聞こえなくなって、ここにはもうロゼと俺しかいなくなってしまった」

薔薇、薔薇薔薇薔薇。熱を持たないそれが、彼を取り囲み、一斉に音をたて、花開く。

「俺は丸を作り続けた。そうして俺の背が少し伸びた頃、俺はロゼの本当の姿を知りたいと、思い切って伝えてみた。ロゼは人間の振りをしているだけだって、ずっと前から知ってたから。だってずっと一緒に居たんだぜ。するとロゼは今まで見たこともないくらい怖い顔をして、駄目だと言った。でも俺はどうしても知りたくて、ロゼに懇願した。すると、ずるり、と人間の皮が半分に割れて剥けて、ロゼから、ロゼだった皮から異形が出てきた。ライオンみたいなたてがみを持つ顔に胴体から長く伸びる十本の黒い腕。ロゼなのに、目の前にいるのはロゼなのに、どうしようもなく恐ろしくて、俺の喉は勝手にひくっと鳴った。するとロゼは三対の紅の目を一斉に俺に向けて、思いっきり顔を歪めた。
『やっばリ、嫌なんじゃナイか、――"こわい"、ッデ、泣くんジャないガ!』
ロゼは潰れた声音でそう哭いた。それはひどく悲しそうだった。俺はとてつもなく悪いことをしてしまったのだと知った。でも俺は子供だったんだよ。あんな風に急に襲い掛かってくる本能的な恐怖ってやつを取り繕う術なんて持たなかったんだよ。
それからロゼは姿を見せなくなった。でもなんとなく傍に居る気配は感じてたんだ、俺が泣いていたら多分悲しそうな顔をしてたし、丸を作ったときは嬉しそうに笑ってた」

やはり慣れないのか、彼は一度大きく咳こんだ。重く垂れた空と地中に沈んだ電柱と剥き出しになった電線、原形をとどめないビル群と瓦礫。その周辺に立ち並ぶ灰色の塔。

「俺は丸を作り続けた。だけどある日突然ロゼが俺の前に姿を見せて、もう傍には居られないって言った。辛いって。幸せになれないって。そう言った。俺はロゼが傍に居ないならもう幸せじゃなかったけど、ロゼが辛いのなら、幸せになれないのならしょうがないと思って、頷いて手を伸ばした。初めてロゼのたてがみを撫でて、その腕に触れた。それは俺みたいな体温を持ってなくて、ああだからロゼは熱いものが嫌いなんだってぼんやりした頭で考えてた。ロゼは動かなかった。だから精一杯伸びをして、黒い牙の生えた傍、俺で言う唇みたいな部分に自分のそれを押し当てた。キスのつもりだった。本で見た誓いのキスの。永遠に一緒にいる誓いの、つもりだった。ロゼは動かなかった。でもそれからロゼは本当に居なくなってしまった、腕を一本残して」

彼が辛い。彼が幸せになれない。彼は幸せでなければならない。この世にただ一つの紅。この世でただ一人の愛しい。

「俺は丸を作り続けた。泣かなかった。だってどんなに泣いてもロゼは俺の元には帰ってきてくれない。俺は名前を呼べないから。寂しい時はロゼが残していった腕を抱きしめて、ロゼの声を思い出して耐えていた。
そんな一人の時間を繰り返すうち、だんだん身体の感覚が麻痺してきてゆっくり動かなくなってきて、ああ俺もついに塔になるんだな、と思った。俺の背も随分伸びた。俺は大人になったんだ。それでも怖かった。こんなに怖いのに、抱きしめて宥めてくれるロゼはいない。俺は、もう独りなんだ。
……でも、きっと最期には見にきてくれるって。看取りにきてくれるって。そう。しんじて。た。だから、見つけやすい。ように。そう。これが、俺と、お前の。は、なし。やっと、また、会え。た。――ロ、ゼ」

手のひらから赤いコード。首の後ろに赤いコード。灰色に重く伸し掛かる空の下、赤いコードに雁字搦めにされ、もうその柔い皮膚も紅に侵食されわずかにしか動かせない彼は、それでも、わらった。黒く朽ちた私の八番目の腕を左腕に抱いて、わらった。

「本当だ。願いは、叶った。二つ。声と、お前」

生まれつき出なかったはずの声を絞り出して、彼はコードの生えた右手を伸ばした。

「おれを一人に、した。お前なんか、ロゼなんか。だいっ、きらい。だって言っ、て。や、るはず、だったのに。なの、に」

彼はわらっている。細い指で、私の牙に触れる。私は動けない。動ける筈がない。動けば彼を。その指を。

「俺は、嬉し。い。名まえを、呼べて。さいごに全部。いえて。あえて、う、れしかっ、た」

揺れる視界の中、私は彼が紅に呑みこまれていくのを見つめている。彼の唇がだんだん動かなくなるのを何も出来ずにただ見つめている。

「なあ、ロゼ。俺は、さ、ずっと、」


不意に落ちた雫の音。それが、最期。


「あ、ア、あぁア……」

そして彼は、心臓を止めた。

壊れた世界で生きていた。灰色が立ち並ぶ中に、一本の紅。嫌われるのが怖かった。触れられるのが怖かった。彼の瞳に浮かんだ恐れの色が怖かった。押し当てられた温もりが怖かった。温かいものは触れればすぐに壊れてしまう。一度箍が外れてしまえば彼も壊してしまうと思った。彼に嫌われたくはなかった。この世界はとうの昔に壊れていたのだ。それでも私たちは此処で息をしていた。此処で、共に、生きていた。この世にただ一つの紅。この世でただ一人の愛しい子。それなのに。共にいればお前が辛い。お前が幸せになれない。お前は幸せでなければならない。お前だけは幸せでなければ。そう自分に言い聞かせて逃げたのは、誰だ。

コードで雁字搦めにされた彼、そして彼を守るように咲き誇る薔薇、薔薇薔薇薔薇。鈍く光を返すそれに触れようと、鼻先を押し当てようと、牙を立てようと、彼は傷つきはしない。彼は壊れることはない。彼はもう何も返さない。彼だけを映す視界が波紋を描いて、揺れる。

「私モ本当は、今まデずっと――!」

灰色が立ち並ぶ中に、ただ一本の紅。曇天に轟く醜悪な私の声。力なく垂れた彼の右腕、その親指と人差し指は不格好な円を象ったまま。私は壊れた世界でただ独り、彼の唇に乱暴に牙を押し当て、哭いた。



薔薇の塔



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暖かな記憶の分だけ失った時の絶望は深くなると思うのです。


2013.03.17 sato91go




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