「く、くまちゃん?」

口から上を覆い隠す布を掻いて、二ノ前は困惑した声を出した。一面灰色の、ひどく殺風景な事務所。書類の山を整理する手を止めて、かわいらしい侵入者に顔を向ける。顔を文様の描かれた布で覆った奇妙な風体の青年にも、臆することなく続ける幼い少女。

「そう、わたしのくまちゃんのぬいぐるみとられちゃったのー……」
「へ、へええ……」

くまちゃんのぬいぐるみ。こんな場所でそんなファンシーな単語を聞くことになるとは、と二ノ前は頭を掻く。全く話が見えないが、ここで何も聞かずに少女を帰せば、まあ自分は燃やされるだろう。二ノ前は事務所の主の顔を思い出して、ため息をひとつついた。とりあえず事務所のソファに少女を座らせ、冷たいココアと貰い物の焼き菓子を。自分には安物のインスタントコーヒーを注いで、少女の向かいに腰かける。ココアの入ったグラスをつかむ小さな手。くりくりとした眼が二ノ前を見上げた。

「ここの人に言ったら取りかえしてくれるって、ママが」
「……いやそれたぶん普通に警察に行った方がいいよ。ここにはヒーローはいない白い悪魔しか住んでない」
「ここじゃなきゃダメなんだってー」
「えええ……。わけがわからない、何でくまのぬいぐるみが……?」

二ノ前は首をひねってうんうん唸るが一向に話がつかめない。窃盗事件なら警察に被害届をだすように言うのが普通じゃないのかママ、そう思うが目の前の少女は至って真剣。わけがわからない、ともう一度ぼやいてコーヒーを啜った。

「ママは言ったらわかるって言ってたけど、おにいちゃんはここの人じゃないの?」
「いや、ここの人だけど。お嬢ちゃんの言う『ここの人』ってのはたぶん俺じゃなくて」
「――『マ法使いの《杖》は普段の姿が文字通りの杖であるとは限らない』」

二ノ前は声のした方にゆっくりと首を向け、扉の前にたたずむ白髪の男を見て顔に巻いた布を思い切りゆがめた。

「ヒトトセ……」
「今帰ったぞ二ノ前」

ヒトトセ――春夏秋冬と呼ばれた男は壁にもたれかかってひらひらと手を振った。ウルフカットの銀白髪、異様に白い肌、そして透き通るように蒼い目。全体的に白い顔の中で、左目を覆う鎖付きの黒い眼帯だけが異様な存在感を放っている。東洋人離れした顔立ちの美丈夫は、ひょいと二ノ前のコーヒーをさらうと、何かを面白がっているような目で少女に笑いかけた。

「もしかして、シ人に持っていかれたかお嬢ちゃん?」
「……シ人ってなにー?」

こてんと首をかしげる少女に、二ノ前は横から口をはさんだ。

「うーん分かりやすく言うとゾンビ、みたいな感じ……? あ、ゾンビってわかるかな」
「わかるー!ぞんびだった!」

分かったことがうれしいのか、きゃっきゃと楽しそうに笑う少女。春夏秋冬も空になったカップを弄びながら、にやにや笑う。白髪の男は、少女にどこで盗られたのか聞き、笑みを深めた。二ノ前はそんな二人を見比べて少し考え、ようやく合点がいったと言うふうに頷き、不機嫌そうな声を出した。

「……この子はマ法使いで、《杖》をシ人に奪われた、ってことか」
「そんなことも聞き出せないお前は、ホントに無能だな」
「……俺マ法使いじゃねーんだからしかたないだろ、わかんねーよそんなこと」

少女と春夏秋冬から目をそらしむくれる二ノ前の額をぺしぺしと叩き、春夏秋冬は整った顔を歪ませてクと笑う。

「よーしお嬢ちゃん、母ちゃんに言って一万円もらってきな」
「いちまんえん?」
「お嬢ちゃんは俺に助けてほしくてここに来たんだろ? 」
「そうー」
「なら依頼料ってのがいるから一万円もってまた来い」
「わかった、そのかわり、絶対やくそくよ!」

 白いワンピースを翻した少女に向けて、春夏秋冬は親指を立てた。

「当たり前だろ、俺は正義のマ法使いだからな」
「……書類放り出してパチンコ行ってたくせに」

嫌いだ、そう呟いてそっぽを向く二ノ前を尻目に、春夏秋冬は眼帯の鎖を揺らしてくつくつと笑った。


インクの匂いが事務所中に充満している。窓も扉もすべて開け放って換気をしたいのだが、春夏秋冬が逃げ出しかねないので諦めてハンコの押された書類をまとめにかかる。

「というかマ法で片付けろよ、マ法使い」
「マ法は一人ひとつ、それ以上は過ぎたことだ馬鹿。一瞬でデスクワークを終えるマ法使いなら俺はこんな仕事付かずに事務職で日がな一日寝て暮らしたいね」

――マ法使いとは。浮遊、空間転移、治療などなど大なり小なり何かしらの奇跡を起こせる人間のこと。二ノ前のような普通の人間が知る魔法使いに関する知識はそのくらいなものだ。マ法使いは独自の価値観と法基準を持つ閉鎖的な集団である為、一般人とはあまり関わりを持たないものなのだ。

「それにしても最近仕事が多いな?」

やだやだと振られる手とは裏腹に、口角はいかにも愉しそうに釣り上がっている。足元にはうずたかく積まれた書類の山。やたらと決済サボってるせいもあると思うんだけど、という小さな呟きは、紙の上を猛スピードで走るペンの音にかき消された。

「マ法に必要なものは、血筋などによる本人の素質とマ法を使うために消費するマ力、それをコントロールするための修行と」
「……《杖》?」
「そうだ」
「マ法使いのことなんか別に知りたくない」
「それでも覚えろ」

まるで指揮者のようにペンを振るいながら春夏秋冬は書類の塔を低くしていく。マ法に関する講釈を垂れながらも止まらない手。うんざりとした顔――正確には顔布で、飛んで行った紙を拾う。

「それにしても《杖》取り戻すだけなのに高くね?いたいけな子供からぼったくるなんて、ホントに悪魔か何かなの、ヒトトセ」
「馬鹿だな、掛かる労力を考えればこれでも安すぎた方だぜ。ま、お前には分からないだろうけどな」

紙から目を上げて、くつくつと喉だけで笑う。二ノ前はまとめた書類を男の顔面に叩きつけてやりたいという衝動を押し殺し、少しだけ窓を開く。厚い雲が覆う空、ほんのりと香る雨の匂い、降るなら洗濯物を取り込まないとなとぼんやり思った。――ふと、春夏秋冬は手を止めた。止まったペンの音を不審に感じて二ノ前は机の方を振り向く。

「というわけで少し寝てろ」

そう言うと春夏秋冬は二ノ前の後首に手刀を落とした。




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