「俺は、また旅に出たいんだ、法王」

愚者は意を決したようにそう呟いて、椅子に座った法王の白い髭をじっと睨むように見つめました。法王は皺だらけの目蓋を開いて、凪いだグレーの瞳をゆっくり細めます。

「ほう、またかね」
「そう!だから法王と隠者にまた祝福をもらえたらと思って」
「旅の目的は決めたのかの?」
「俺は旅に出て、えと……、立派な人間になりたい!」
「ふむ、何のためにかな」

瞳にきらきらと若さを散りばめた愚者は、恥ずかしそうにその瞳を伏せて、もごもごと言い淀みました。大きな体を縮こませ微かに耳を染める様はさながら恋する乙女のようです。

「だ、大好きな人に少しでも、み、認めてほしくて……!」
「大好きな人、はて、知っているかの、隠者よ」
「……知らんな法王よ」

精悍な顔を真っ赤に染めて、きゅうっと小さくなっている愚者を横目で見て、隠者は思います。愚者と呼ばれる若者は、法王の方をちらちらと見ながら、目が合いそうになる度ぱっと目をそらし、耳をより一層赤くしました。フードの奥の顔をしかめて隠者は思います。愚者の想い人が誰であるかなど明確であろうに、と。

「いいい、隠者。えっと、ランプがいるんだったよな、これ、どうやって使うんだ!?」
「ああ、それは触るな、置いておけ。使うのはお前ではなく、私だと何度言えば」
「うわあああ、ごめん!」
「楽しそうだの、よいよい」
「わー!」

窓の外、暗く重く、鬱蒼と茂る木々。ひゅるん、と夜風が葉を揺らしました。法王は狼狽える愚者を瞳に映して可笑しそうに微笑んでいます。カタン、硬い音を立てて置かれた古ぼけたランプ。

「さあ、また今日も始めるか」

森の奥深く、隠者がランプにそっと手のひらを翳すと、ガラスの中に小さな火が灯ります。赤く静かに揺れる炎。隠者はフードの奥を小さく照らすように、静かにランプを持ち上げて少し口角をあげました。

「――さあ、お前の行くべき道は照らされた」

隠者が持ち上げたランプ、そこから淡い光が伸び、やがて一本の道を照らして闇に浮かび上がらせました。ぽう、ぽう。緩やかな光の塊たちが音をたてて現れ、道の周りをくるくると踊りだします。隠者と法王は顔を見合わせて、満足げに頷きました。

「もうお前を縛るものは何もない」
「よいよい、もうお前を縛るものは何もない」

ぱちん、法王は枯れ木のような指を鳴らして笑います。

「では良き旅立ちを」
「願わくば良い終わりも」
「星がお前の足元を照らすことを祈っているよ」
「くれぐれも塔から落ちることの無いように」
「そして世界にたどり着けるよう」

交互に聞こえる法王と隠者の祝福。導く二人の声に応えるように、愚者はきらきらと瞳を輝かせて大きく頷きました。

「今回もありがとな、二人とも!」
「嗚呼忘れていたの、最後にもう一つ祝福を」
「あれ、いつもこれで終わりじゃ」

法王は杖を手に取るとゆっくり立ち上がり、愚者の長い前髪を掻きわけて、

「――良い旅を、愛しい子」

その額にひとつ、ささやかなキスを落としました。

「お前の願いが叶うことを祈っているよ」

闇深い森に一本、ランプの柔らかな光が照らす道。愚者は法王にぎこちなく手を振り、ぎくしゃくと光の方へ歩みだします。法王はまた皺だらけの顔に笑みを浮かべました。

「ふふ、またしばらく、寂しくなるの」
「引き留めれなくていいのか、法王よ」
「そんなことができるものかね」
「貴方の言うことならあれは聞くだろう?だってあれは、」

貴方の事を慕っているじゃあないか、まあ、その、そういう意味で。しかし、そこまでお節介を言うのは隠者の性に合いませんでしたので、すんでのところで口を塞ぎ、フードを深く被りました。

「それでは意味があるまいよ、ここに繋ぎとめては意味が」

法王は眩しそうに眼を細めて、淡く輝く一本の線を見つめます。そこをゆっくりと、時に外れながらも確かに踏みしめていく若者を見つめます。

「自由な愚者が愛おしいのだから。どこまでも真っ新で真っ直ぐなあの子が、」

――可愛くて、仕方がないのだから。柔らかく、温かく、とてつもなく甘い声。法王の小さなつぶやきに、隠者はひとつ溜息をついて、手の内のランプを天高く翳しました。

(……あれが帰ってきたら、今度は思いっきり節介を焼いてやろう)

そういう世話を焼くのは本来の自分の領分からはかけ離れている気がしましたが、まあそれはそれ。この二人は見ているこちらの方がもどかしく、むず痒くなるのです、それくらいの報復は許されるでしょう。隠者は一人静かに決意して、踊る光たちを映した目を眇めます。

「嗚呼、綺麗だの」

徐々に遠く小さくなっていく、光をなぞる愚者の姿。法王は、照り輝く髭を撫でながら、愛し子をいつまでもいつまでも眺めていました。




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