「おはよう、……レム」
今日も頭の中身は真っ白だ。思い出の箱は空っぽだ。かけられた声に重い瞼を持ち上げれば、太陽の光で目が眩む。どうにかピントを合わせれば、すぐ近くに男の顔があった。
「うっわ!?」 「何故そのように驚く」 「起きてすぐ目の前に生き物がいたら普通は驚くと思うんだけど!」 「そういうものか」
覚えておこう、と俺の顔を覗き込みながら抑揚のない低い声が言う。彼のように大きな捕食者にはわからない感覚かもしれない、などと考えながら冷たく固い地面に寝ころんだまま自分の顔をさする。細かい砂が顔中についていた。寝る前に何か服でも敷けばよかった。
「アウネさん、顔洗いたいんだけど奥の水場って使っていいの」 「好きに使うが良い」 「ありがと」
しゅるしゅると鱗が地面と擦れる音がして、彼の人間の部分、上半身が離れていく。ほどよい距離になったところで彼は右手を掴んで、俺の身体を起こした。長い髪には相変わらず赤い花が数多編みこまれていて、身体の揺れと共に静かに震えた。
『……良ければ、何か思い出すまで、吾の棲家に置いてやるが』
あの後、アウネンゴデムと名乗った彼はどうにかショックから立ち直ると、そう口にした。確かに帰る家の位置すらも分からない俺にとってはありがたい申し出。しかし、そこまでしてもらう義理は無いように思えたので、人里の方向を教えてもらえればあとは自分で情報を集めて何とかする、と答えた、のだけれど、彼は眉をしかめて困ったような顔をした。
『この森は吾の縄張りだが、ぬし以外の人間を見たことはない。集落の位置など分からぬぞ。吾は竜尾の者、人間とまず関わり持たぬ種であるからして』
加えて森は広大で、一日で抜けることなどまず出来ない。夜になれば気温も下がり、獰猛な獣も出る。夜目の利くものならともかくぬしは昼行性に見えるのだが、どうか。淡々と指摘される事実に頭を抱える。ああ、うん。自分だけではどうしようもなくないか、これ。少し考えたが何も打開策は思いつかなかったので、おとなしく彼の厚意に甘えることにした。
『ねえ、アウネさん、竜尾って何?』 『創世の折、竜の尾から生まれた者だ、レム』
上半身が人間、下半身が大蛇の見た目をした生き物。世界を創りし原初の竜、その屍からは多くの生物が生まれた。尾から別たれた者、種の名前を竜尾の一族。
『レムって誰、俺のこと?』 『吾が唯一知っている人間の名前だ、ぬしにやろう』
名が無ければ不便だ、だからやろう。アウネンゴデムはそんなことを淡々と話しながら、俺を蛇の部分に乗せ、住処にしている洞窟まで連れて行ってくれた。なお、勝手に略した名前には最後まで突っ込んでくれなかった。それが昨日の話。
「つめた……」
そして、今。洞窟にある水場に手を付ければ切るような冷たさが指を痛めつけるが、気合いですくって顔の汚れを落とす。アウネンゴデムによればまもなく春とのことだったけれど、まだまだ肌寒さは落ち着かないようだ。赤らんでいく手のひらと反比例するように目と思考は冴えていく。
「はー……すっきりした……」
手を抜いて波紋が落ち着くのを何となく見守れば、やがて水面に俺の姿がはっきりと映った。
「うーん、そんなに女に見える?」 「うむ?」
かろうじてうなじが隠れるくらいの長さの黒髪。二つある金色の瞳は男にしてはそこそこ大きいかと思うけれども、顔が小さいから目が大きく見える、少年の顔つきであるだけだ。隣で水を飲んでいる男の顔に比べればまだまだ未成熟な印象を受けるとはいえ、両目を縁取る睫毛も長いとは言い難いし、身体の形だって女性らしい曲線を描いたりはしていないように思う。うんうん唸っていると、アウネンゴデムは何かに思い至ったように一つ頷いて、口を開いた。
「ああ、ぬしが気に病むことはない。丈の長い、ひらひらしている服を着ているから雌だと判断してしまっただけで、……女のように見えるかと言われると吾も正直よく分からない」 「あー……?」
立ち上がって軽く回ってみれば、深緑の服の裾は足元からふわりと持ち上がった。確かにひらひらしている。遠目で見れば乙女のドレスのように見えるかもしれない。
「でもその雌雄判定はなかなかにリスキーだと思うよ、これも多分男物のローブだし」 「いや、人間を見たことが無く、そのような特徴を知っていたくらいだったから、だな……」
もごもごと言い訳のようなものを述べる大きな男がなんだか可愛らしく思えて吹きだす。次は胸のあるなしで判断すればいいんじゃない、と助言を送れば、次、と彼は眉を上げて反復した。
「じゃあ俺ちょっと森を回ってくるけど、アウネさんは?」 「狩りに行く。ぬしも獣に気を付けて行くが良い」 「はーい、アウネさんもね」 「吾は強い」
この森で拾われたということは、どこかに何かしら記憶を取り戻す手掛かりはあるかもしれない。そう考えて、今日から地道に散策に出ることにした。夜目は利かないが、夕方までに帰れば問題ないだろう。枝を拾い、草をかき分け、帰り道の目印を地面に記しながら歩いていく。ふと。
「…………お人好しだなぁ」
ふと、それなりに後ろの方から雑草が巨大な生き物に潰される音がし始めることに気づいた。振り返っても何も見えないけれど、これは確かに、昨日洞窟への道中彼の背で聞いていたのと、同じ音。さくさく、さくさくと一定の距離を保って聞こえてくるそれに妙な安心感を覚えて、俺は散策を続行した。
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