むかしむかし。大魔王ガルタニアスは、内心頭を抱えておりました。

『とうさん、どうしてそんなへんな顔してるんだ?』
『お前の所為だ』
『おれの、せいー?』
『そうだ、何もかも全てお前の所為だぞ……』
『おれのせいー!』

何がおかしいのか、びしょ濡れの子供は魔王に抱き上げられたままにこにこ笑いました。先程まで生命の危機に瀕していたとは思えないほど屈託のない笑顔に、ガルタニアスの口から溜息がこぼれます。
エルヴィスを拾ってからいうもの、魔王はこのすぐ「死に向かう」生き物に手を煩わせていました。それはもう、以前のように人間を滅ぼしに行く暇すらないほどに。

『死に急ぐような真似をするなと何回言って聞かせれば済むのだお前は、溺死が好みか』
『とうさんも泳げないくせにー』
『なっ、私の身体は水に浮く構造になっていないだけだ!』
『そうなの? じゃあおれ、おおきくなったら泳げるようになって、おぼれたとうさんをたすけてあげる!』

エルヴィスは目の離せない生き物でした。高い崖があれば飛べもしない癖に飛び降りてその高さを体感しようとし、深い湖があれば泳げもしない癖に潜って底に何があるか見ようとします。この子供は大変無鉄砲で向こう見ずで、まったく己の命を省みないのです。自制のきかない子供とはいえ本能で死は恐れるもの、なのにこれはまるで、生存本能が死んでいるかのよう。 その様は魔王の目にすら異様に映りました。

『…………忌々しい』

それは誰に向けた言葉だったのか、零した本人にも良く分かりませんでした。
ともかくエルヴィスはそういう生き物でしたから、最大の敵であるはずの大魔王にも本能で恐怖せず、あろうことか自分の父親だと信じ込んだりしてしまうのでしょう。一度でもいい、ガルタニアスを恐れてくれれば、魔法で意のままに操ることができるのに、エルヴィスの金の瞳に映るのは相変わらず好意と愛情のみで、隙がまったくありません。今だってむにゅむにゅと柔らかな頬を魔王の胸に押し付けて遊んでいます。大魔王たる自分が彼の中で崖や湖と同列に扱われ、さらにまったく畏怖の対象にならぬなど、ああ、大変不本意です。

『ねえ、とうさん、おれが死んだらかなしいの?』
『当たり前だろう』

当たり前です、エルヴィスがこんな下らないことで死ねば今までの苦労が水の泡ではありませんか。大魔王は、出来るだけ沢山の絶望が見たいのです。そのための道具が無くなれば大変困ります。

『分かったら、もう二度と危険なことはするな』
『はーい!』

なぜか嬉しそうに、エルヴィスは全身でバンザイをして見せました。返事だけはいいのです、返事だけは。魔王は苛立ちのまま少年の額を軽く弾きます。そう、この胸の奥で怒りの火が煌々と燃えているのは、無礼にも魔王への畏怖を知らぬエルヴィスのせいで、断じて、「勇者が何も恐れないように作られている理由」に思い至ったからではないのです、断じて。




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