私は手を止めて、本を閉じた。
あれから季節が十度めぐって、今は心地よい空気が萌え始めた緑を揺らす初夏。吹き入る風が柔いカーテンをふわりと持ち上げて、窓の外の風景を一層美しく見せる。

「おいでハルモニア、お昼ごはんの時間。」

私はペンを置き、玄関の扉を開いた。青空を飛び回る桃色の仔竜を呼ぶと、頭上からピューと元気のいい返事が返ってくる。

私もエイリーンと同じように、十五の時分に、そうつまり今年の春に、一匹の竜と出会った。生まれたばかりでまだ言葉も話せない仔竜は、大きな窓から身体をくぐらせて部屋に入り、手持無沙汰なのかもしゃもしゃとカーテンを食んでいる。

「もぉー……悪戯しちゃだめっていつもいってるでしょ……。」
「ピュ?」

祖母が息を引き取ってから少しして、白い竜と赤い竜はめでたくつがいになった。それは勿論、祖父を筆頭とする我々一族全面監修によるロマンチックなシチュエーション作りのおかげで。
そしてその二頭の血を引く桃色の仔の名前は、この私、アイリーン・フリエラが付けた。エイリーンによく似た私に名づけてほしいと、まだこの仔が卵の時に、あのドラゴンが言ったのだ。

「お皿……はまだ並べられないだろうから、自分の食べる分だけ花を摘んできなさいね、ハルモニア。」
「ピューイ!」

名づける時、ハルモニア、と私の口からは不思議なほどするりと名前が出てきた。おばあちゃんはね、この名前が一等好きなのよ。私の人生を変えた、一番大切な名前なの。内緒話をするように、祖母がかつて言って微笑んだのを、私は覚えていたから、つい。その時の祖母の顔がとても優しくて暖かくて、幼い私にとってもとても大好きな名前だったから。
祖母は、エイリーンは決して言わなかったけれど、成長した私にはそれが誰の名かなんとなく分かっていた。竜の名前を本当に呼ぶことができるのは、その竜の友たる人間だけ。この白い竜にとっては、エイリーン・フリエラだけ。だから、ダメかしらと恐る恐る彼女を見上げたのを覚えている。白い竜は目をしばらく見開いていたけれど、やがて何かを思い出したように、嬉しそうに眼を閉じて、とても良い名前、と笑った。

「さて、お待ちかねのランチ! 準備はいいかしら。」
「ピュー!」

エイリーン・フリエラの生涯の食卓は竜と共にあった。カリカリに焼いたバゲッドに、羊のチーズのスライスと今朝とれたばかりのみずみずしいレタス、仕上げに春作ったベーコンを思いっきり贅沢に挟んで白い皿に乗せれば、ハルモニアが赤い薔薇を横から添える。

「さて、ハルモニア、挨拶は?」
「ピュピュピュピュピュー?」
「うーん、そうね。今のはちょっと惜しかった。」
「ピューピュ」

竜の友にして、我が偉大なる祖母、エイリーン・フリエラの話をしようと思う。一人と一体が過ごした時間の濃さも、その時間が持つ意味も、どんなに私が言葉を尽くしたところで、本当のものは彼女たちにしか分かりはしない。けれど、祖父が、伯父が、伯母が、母が、そして祖母と竜自身が語った食卓の物語を次に伝えることに、この先の子どもたちや孫たちずっと先の愛しい家族たちに伝えることに、私は意味を見出したから。だからこそ、私は今日も筆を執る。

「ピュピュピュピュピュー!」
「いっただきまーす!」

私は肉汁溢れるサンドイッチに齧り付き、仔竜は柔い薔薇を食む。そう、これは、私の、私たちの優しい食卓の話。エイリーン・フリエラの願った優しい食卓は、私たちの大好きな竜のいる食卓は、いつまでだって続いていく。




   ←      (main)  



×