レイン・ミーツ・サンライト
引き合う、惹き合う

なんてことはない感謝の意を表明するその言葉に、彼は何か特別な意味を込めたのだろうか。ついどういたしましての模範解答を返してしまったけれど、そう思わせるほどにそれは何の脈略もない突然のありがとうだった。
それ以前に私はあの人に感謝されるような慈善活動はしていないはずなのだけど。思い当たるのは先日席を譲ったことと体育祭時に傷の手当てをしたことくらいだが、私にとっての仕事の一つでしかないそれに対してわざわざ律儀に後から礼など言うだろうか。むしろ保健室で鉢合わせした時には保健委員の癖して怪我人に迷惑をかけてしまったわけで。考えれば考えるほどわけがわからなくなり、私はただ首を傾げるばかりだった。
普通、どういう時にありがとうなんて言うだろう。考えるのも、そんな初歩的なところから。

A組の轟君。エンデヴァーの息子。推薦入学者で、反則級の強さを誇る個性の持ち主。……なんて、それくらいなら、この学年の人間なら多分誰でも知っている。
『轟焦凍』。特に意味もなく、シャープペンシルを走らせて記憶を確かめるようにノートに名前を並べてみた。
轟。車が三つ。クールな印象が強かったから、改めて彼の言葉を思い返すとかわいく思えて……。

「なまえちゃん。なまえちゃん?」

聞き慣れた同級生の声に意識を呼び戻され、はっとする。まばたきを繰り返しながら教室を見渡すと、周囲の生徒達の席を立ったり、一気に力を抜いて椅子に凭れ掛かったり、腕を伸ばして骨を鳴らしたりしている姿が目に入り、授業終了後であることを悟った。
やってしまった、と呑気に後悔の念に苛まれているのもつかの間、現実に帰還した瞳に映った自分の手元には、少年の名があって。驚きのあまり悲鳴か奇声を上げたい衝動に駆られるも、ぎりぎりのところでぐっと堪える。慌ててそれを手の下に隠して、ブリキ人形のようなぎこちない動きで顔を上げた。

「……なっ、なにっ?」
「話聞いてなかったの? ノート回収だって。持ってっていい?」
「あ、うん、わかっ――わーっ! ちょっとまって!」

すっ、と机の上からノートを抜き取りかけたクラスメイトの手を止め、慌てて轟君の名前の部分を破り取る。
うっかり書いたのが紙の端っこでよかった。後ろ手にくしゃっと紙切れを丸めて証拠隠滅を図りながら笑顔を造り、反対の手でノートを差し出す私は心から安心していた。

「なんかあったの?」
「なんにもないよ! なんにも!」
「そ。ならいいんだけど」

上手く誤魔化せたとは到底思えないが、ひとまずこれで良しとしよう。
机と机の間の狭い通路をすり抜けて教室を後にしかけていた彼女の背中を見送っていると、振り向きざまに意味深な微笑を向けられた。何だろう、という疑問は直後に放たれた一言で吹っ飛ばされる。

「ひょっとして、恋煩い?」
「ち、違う!!」

がたんっ! 勢いよく立ち上がった拍子に、それまで腰を預けていた椅子が派手に倒れ、一気に視線を集めてしまった。
「すみません」と誰に対しての謝罪なのかはよくわからなかったが取りあえず謝りながら身を低くすると、どうだかなぁ。廊下の方からそんな声が聞こえた気がした。

「違うって……多分」

屈んで古びた椅子を定位置に戻す作業中、誰に言うでもなく零したけれど、弱々しく力無い否定の通り、決してそれまで存在していなかったはずの感情に気付けなかったわけじゃない。ただその気持ちの名前に、まだ確信が持てなかっただけで。わからないと言って逃げることしか、心を落ち着ける方法が思い浮かばなかったのだ。

2016/07/28 書き上がり
2016/11/23 修正

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