レイン・ミーツ・サンライト
04

当分は会えないと思っていた中での、職員室付近の廊下でばったり、なんて安いドラマにありがちな展開だった。

「あ……また会いましたね」

みょうじ。驚くほどにすんなりと、相手の名前が浮かび上がったことがどこか胸に引っかかる。

「職場体験の申し込みですか?」
「それは先週。今日はただの提出物だ。経営科もあるのか? 体験」
「公平を期すために〜ってほとんど形だけですよ。中学の時の延長線みたいな感じです」
「………」
「どうかしました?」
「それやめないか」

小首を傾げ、頭上にわかりやすく疑問符を浮かべるみょうじは、きっと恐ろしく察しが悪い。

「敬語。学年一緒だろ」
「あ、はい――うん」

出さなければならない課題は既に提出済みで、職員室にもう用はない。もちろん彼女に対して特別な用件があるわけでもなく、ただ知らされていない下の名前が気になるというだけ。それも体育祭のことについて礼を述べたいと思っていた程度だ、ここは会釈でもして立ち去るべきなのだろうが……――そうだ、礼。

「この前はありがとう」

同じ意を伝えようと自分が探していた言葉を先回りで投げかけられ、それと同時に不意打ちの友情口調にどくりと心臓が波打った。
しかし、戸惑ったのはほんの一瞬。

「風邪とか全然引かないから慣れてないし、結構辛かったんだよ。助かった」
「別に大したことじゃない。誰だって風邪は引くだろ」
「ううん。私、個性でウィルス系寄せ付けない体質なの。あっ、そうだ、轟君はどうなった?」
「何が」
「悩み。解消した?」

良くもまあ、面識があるかないか程度の人間の細かな部分まで覚えていられるものだ。彼女が俺の顔と名前を記憶していただけありがたいとは思っていたものの、それらは全て要らぬ心配だったのかもしれない。

少しの間、自分の左手をじっと見つめて。

「職場体験でしっかり見てから答えは出す。……出せるかもわかんねぇけど」

ヒーローは誰かを助けるのが仕事だけど、時には誰かを頼ることも大切だと彼女は言った。だったら少し、頼らせてくれないか。今にも口走りそうになった本音を押し留めると今度は何も喋ることがなくなってしまい、目を背ける。
休憩時間ということもあり、他生徒の話し声が重なり騒音を作り出す廊下を並んで歩く自分たちの間にのみ流れる沈黙。妙に気まずい静寂を破ろうにもまるで話題が見当たらず、この時ばかりは自分の会話術の無さを呪う他なかった。
自分の中の箱をひっくり返して、乏しい中身をほじくり返し何とか話題は見つからないかと必死になっての荒探し。ふいに、次に会ったら下の名前を聞き出そう、そう決意していたことを運良くこのタイミングで思い出した。

「名前。」

……探り当てたところで、それを自然に切り出せるかどうかはまた別の話であるが。

「名前?」
「そう。お前の名前。聞いてないだろ」
「確かに、そういえば。なまえですよ。みょうじなまえ」
「また敬語になってる」
「あ、ご、ごめん。轟君は焦凍君だっけ」

間。
ぽかん、と鳩が豆鉄砲を食ったような間抜け面で体の動きが一瞬ほど停止した。

「あれ、違う?」
「いや、違くねぇよ。ただ……」
「うん?」
「やっぱなんでもない」
「えっ、気になるよ」

まさか突然に名前を呼ばれるなんて思うまい。
ただ少し驚いただけだ。続くはずだった先の言葉を胸の内で呟いた。

「それじゃあ、またね、だね」
「あぁ」

A組の自動ドアが開かれるセンサーの一歩手前で手短に挨拶を交わし、中に入ろうとしたところで動きを止める。更に続いていく廊下を踏み出す彼女をもう一度見て。

「みょうじ。ありがとう」

最早何に対して礼を言いたかったのかわからないけれど。
言いたいことを伝えられ、満足しながら教室へ足先を向ける自分とは正反対に、消化不良を起こしかけている彼女はあたふたしながら表情をくるくる変えていた。どういうこと、私何かしたっけ、を口から溢れさせながら。
寧ろ迷惑かけてるんじゃ…、と曖昧にしておいたせいでみょうじの中の結論があらぬ方向へ傾きだしていることに気付き、訂正しようと彼女を振り返る。――と。

「ど、どういたしまして……? 轟君」

ただ名前を呼ばれただけのこと。それでも、途端に耳をくすぐられるかのようなむずがゆさを感じて、ぶわっ、と体の芯が物凄い勢いで熱を帯びていくのを自覚した。
息を一つ吐き出すと、ぱたぱた廊下を駆けていくかわいらしい後ろ姿を見送りながら、顔の右半分を手で覆う。いくらなんでも浮かれ過ぎだろう。自分が“ありがとう”に彼女の名前を添えて伝えたから、どうすればいいのかわからなくなった向こうも同じように付け足して、どういたしましてを言っただけなのに。
馬鹿じゃなかろうか。

2016/07/26 書き上がり
2016/11/10 修正

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