レイン・ミーツ・サンライト
03

ぱっくりと割れた人差し指の皮膚の間から赤い液が滲み出す。びり、と小さな痺れに顔を顰めて右手に握っていた包丁を見れば、鉄の刃先には同じく真っ赤な血液がこびりついていた。あぁ、切ったのか。遅れて脳が認識するが、だからといって特別何か手当てを施そうとも思わず、身に着けていたエプロンの裾で血を拭ってから調理を再開しようと手で持ち直したところで、外部からの制止が入った。
「轟くん、血! 血、出てる!」と、青ざめながら切羽詰まったように言うのは緑谷で、たちまち教室中の視線が自分に集められる中、手から包丁を奪い取ったのは切島だったように思う。
これくらいの出血で死ぬわけでもあるまい。緑谷自身、個性を放つ度に腕に粉砕骨折を作っているのだから、これくらい舐めておけば治る…とそのとき言おうとしたが、しかし言葉を終えるより先に教室から追い出されたことが記憶に新しい。野菜に血が付く、というのが一番の理由らしいのでおとなしく従っておくことにし、保健室の扉を開ける。途端、ざわ、と空気が動くのを感じた。窓から風が入ったようだ。
オフホワイトのカーテンが風にたなびく室内で俺を出迎えたのは少し前に顔を合わせた女子生徒で、向こうも自分の存在に気が付いたのか、会釈をして何があったのかと事情を尋ねてきた。

「調理実習で指切ったから絆創膏貰いに来た」

手短な説明。来た、というより、行かされた、という方がずっと事実に忠実だがこの場で話す必要性は感じないので伏せて置く。

「えっと、今リカバリーガールいないみたいなので。まずそっちで手洗って、そしたら座っててください」

言われるがままに水道を捻って血を洗い流す。温度調節が効かない冷水が傷口に障るが、そこは然程問題ではない。指定された背もたれのない椅子に腰を下ろし、やることもないので少女の姿を視線で追った。
長くも短くもない黒のスカートをひらひら揺らす彼女に関する情報は、そういえば所属する委員会程度のことしか与えられていない。他の学科に比べて保健室に世話になることの多い身としては、保健委員の名前を知らないのはさすがに不便だ。
何か言葉を言おうと口を開きかけて、閉じる。
遠慮する理由はないのと同様に、あえて掘り下げる理由もなかった。

薬品の収納された棚に近づく彼女が硝子戸を開けようと手を伸ばしかけたところで、突然ふらりと前のめりになったかと思うと糸が切れたように崩れて、そのまま。
ゴッ、という鈍い衝撃音が痛々しく室内に響いた。
目の前でよろめき倒れかけた挙句、額を強打した少女にぎょっと目を見張る。

「おい大丈夫か?」
「……痛い」

ふらふら、ふにゃふにゃと頼りない動作で体制を持ち直すが、掌で顔を覆った状態のまま数歩下がって小さく唸りながらしゃがみ込む。明らかにおかしいその様子に椅子から立ち上がって歩み寄ると、病人に見られるような顔色で見上げてくる瞳とかち合った。

「ちょっと具合悪くて」
「体調悪いなら最初からそう言え」
「でも保健委員だし」
「誰がどう見てもお前の方が悪そうだ。取りあえず横になれ。立てるか?」
「うん…」

血をつけてしまってもいけないので左手を差し出すと、返事と共に片手を乗せてきた保健委員を床から引き上げた。
手当てを受けに来たはずの自分がどうして体調不良の保健委員を介抱してやっているのだろう。よくわからない現状に疑問が浮いたが、突き詰めても逆に答えを見失ってしまう気がしてそこで思考を打ち止める。
触れたその手はただ熱い。子供のように繋いでベッドに導いているのが左側であるにも関わらず、だ。
のそりとマットレスに這い上がる彼女の体重を受け止めて、スプリングが軋む。
日差しを眩しく反射する純白のカーテンに手を掛けると、反対側から閉めるのを手伝ってくれた。

「年組名前。これに書いとくんだろ。言ってくれ」
「経営科の1年、みょうじ。吐き気と目眩」
「熱は?」
「ないです」
「いやあっただろ。体温計どこだ」
「37度ってことにしといてください、面倒なので」
「それでも保健委員か」
「誰も体温なんて見ませんて。適当にそれっぽい温度書いといて後から上がったとか言えば誤魔化せる」
「大丈夫か、雄英の保健室」

さすがに普段は真面目にやってますよ。不服そうにぼやく声が薄い布越しに鼓膜を揺らす。
だろうな、とその言葉は声には出さずに胸の内で留めておいた。
自分も吐き気で辛いはずなのに怪我人を優先して診てしまう程度には真面目……というより、困っている人間は放っておけないお人好しなのだろう。その相手は診ようが診まいが生活に支障をきたさない、ただの切り傷だというのに。自分で勝手にやって、と横になることもできただろうに。

「轟君」

不意に名前を呼ばれて、息が詰まる。向こうが知っている理由に心当たりこそあったものの、どうして覚えていたのかという驚きの方が勝ったのだ。

「どうした」
「絆創膏、棚の上の段の右端に置いてあるからそれ使ってください」
「あぁ」

すっかり頭から抜けていた、ここに来た理由を思い出す。
教えられた通りにガラスケースから取り出した絆創膏を指に張り付けて、粘着力を確かめるともう一度ベッドの方向に視線を投げた。

「具合悪いとこすまなかったな」

謝罪に対する返事はない。寝たのだろうか。
踵を返して部屋を後にする。保健室の扉が閉まる音を背中に聞きながら、みょうじ。と、今日初めて知った相手の名前を口の中で呟いてみる。
経営科。保健委員。みょうじ。
クラスが違えば学科も違う、そんな自分たちを結ぶものなど何もない。関わることもないであろう相手の情報を不要と思う一方、彼女に対する好奇心が掻き立てられていたというのもまた事実で。下の名前も知らない少女を、知りたいと思ってしまったのも確かなことで。
知らない感情を抱えた自分の中で静かに動き出す、芽生えた気持ちに戸惑った。

***

「珍しいね。今日はお前さんが患者かい」
「あ、リカバリーガール。ちょっと目眩と吐き気が酷くて」
「その様子じゃバリボーはやめておいた方がいいね。……おや、誰かほかの生徒もいたのかい?」
「ヒーロー科の轟くん。調理実習で指切っちゃったらしくて絆創膏はちゃんと張ったと思います」
「なるほどねぇ。どれ、今日はもう少し休んでいきなされ」
「大丈夫です。午後の授業、小テストなのでいかなきゃだし」
「真面目なのはいいがたまには休養も大事だよ。特に無理は禁物だ。体調悪いまま放っておくと近いうちにぶっ倒れるよ」
「うっ…。気を付けます」

2016/07/08 書き上がり
2016/09/30 修正

- ナノ -