レイン・ミーツ・サンライト
01

未だ収まることのない歓声を背中に聞きながら、体育祭会場を後にして保健室へと足を運ぶ。
悶々とした晴れない思考を巡らせて歩く廊下は静かすぎて、自分の足音がやけに響いた。しんとした静けさが耳に痛い。

『リカバリーガール 出張保健室』。そんなやけに可愛らしい看板の掲げられた空き教室の前で足を止めて、手を伸ばす。――と、がらり。
触れてすらいない扉が勝手に開いて少しばかり驚かされたが、それは開けた当人も同じようで。中から出ようとしていたらしい女子生徒が足を踏み出す直前の棒立ち状態で固まっている。2位の人だ。声には出さずに呟くように、口元が象った言葉は何となくだが察することができた。言っているのは障害物競争のことだろうか。
精神面での疲労感で押しつぶされそうな頭では口を開くのも億劫で、彼女が退くか開口するのを待っていると一歩後ずさり中にいる看護教諭に向けて声を発する。

「リカバリーガール。怪我した人が来たみたいです」

どうぞ、と中に通されると消毒液の匂いがつんと鼻に付く。
歩み進んで行く途中、ベッドを囲うように閉め切られたカーテンの中に横たわる人影を見たが使用者は緑谷なのだろうか。
病院でよく見るカルテに似たものを片手について来る女子は、自分と少し距離を置いて立ち止まる。妙齢ヒロインの異名を持つ保健室の番人の前に設けられた丸椅子に腰を下ろしてから彼女を振り返った。

「行かないのか」
「保健委員なんです。なのであの、名前とか」
「轟。1年、ヒーロー科」
「とどろき…」
「車が三つで」
「あ、はい」

すみません、ともごもご謝罪を口にしながらペンを滑らせる彼女。なぜ謝ったのだろう。ぼんやりと頭の片隅で考えながら、リカバリーガールの“治療”を受けた。
……保健委員と自称した彼女が持っている救急箱で足りたのではないだろうか。独自の治療法に活力を奪われたような表情でいると、後ろから控えめな声がかかる。

「あのこれ、着替え…なんですけど、カーテン閉めるのでベッドの方で上替えてください……」

弱々しく消え入っていく語尾。気まずそうに目線を外しながら紺色の上着を差し出され、そこでようやく今の自分の状態に意識が向いた。耐熱性の薄い体操服は放出した熱量に耐えきれず、左側が派手に破損してしまっている。耳まで赤くする程に、彼女にとっては刺激が強かったのか。
ぱたぱたと逃げるように距離を置いて空きベッドのカーテンを引いた。

「どうぞ。」

相変わらず、視線は合わせないままで。

切り離された空間は自分の中で荒波のように高ぶり始めた何かを鎮静させるには好都合だった。整理がつかない今の状態では、緑谷と戦う前よりも結果に確信が持てないのだ。
広がる波紋はどこまでも真っ直ぐだった心に迷いを産んで。どうにか気分を落ち着けようともがいてみても、うまくはいかない。
目を閉じると、視界は穏やかな闇色に閉ざされた。耳の奥に、瞼の裏に緑谷の見せた激情が蘇る。

カーテンに揺れる人影は背格好から見てあの女子のものか。などと思った矢先、声を掛けられた。

「着替え終わりました?」
「……あぁ」
「開けますね」

一応の断りの後の、シャッとカーテンレールに金具と布がぶつかる開閉音。開けた景色に目が眩む。

「送りましょうか?」
「平気だ」

短い会話を交わした後、再び扉をくぐる。早足で渡る無人の廊下に冷たく反響する自分の足音だけを聞いた。

***

ずずぅん、と地響きにも似た大音響が闘技場から離れたここにまで伝わってくるのだから、戦況が気になるのも仕方がないことだ。

「保健委員ってこういう行事のとき不利ですね」
「あんたの学科じゃ体育祭に出るメリットもないだろう。そんなに見たきゃ、ちゃちゃっと在庫確認終わらせて会場戻りなされ」
「はは、でも私がいなくなると他の人が困ると思うし。私も来年は何か売ろうかなぁ」

初戦の障害物競走リタイア後、売り子に徹する同級生の姿を思い起こしながら最後のダンボール箱に手を付けた。

それから数十分後。委員としての役割が終わったにも関わらず、決勝戦もいよいよ佳境に入る頃に派手な負傷を見越した教員にまだ残っていて欲しいと頼み込まれ、試合の結果を見逃す形で保健室に留まることになった私は本気で委員会の変更を考えた。

***

深い沼の底から引き上げられたような気分だった。
酷い気分で沈んでいたような気がする。身体が重たくてやけに怠い。
ぼんやりと、滲む世界をこじ開けるように。目を閉じてから、また開ける。何よりも先に飛び込んできたのはオフホワイトの天井で、時間をかけてそこに焦点を合わせていくと、一点の曇りもなく映るその場所は同色のカーテンに仕切られており、鼻腔を劈く消毒液の匂い……ということは。保健室、なのだろう。
誰かが運んでくれたのか、と霞がかった脳で考えて自分の置かれている状況を理解する。同時に、重たく沈む体に伝わる感触も。
全身に残る息苦しさと倦怠感。眠っていたのだろうか。思考の回転が鈍っているようで、その結論に辿り着くまでには少なくとも数秒ほどの時間がかかった。
上体を起こすと頭が芯から痺れたように痛んで顔を顰め、ベッドを抜けると柵代わりに隔てられた薄い布を開けた。

「あ、起きた」

自分のものではない少女の声。
明るい室内で忙しなく渡る幾つもの足音がそこにいるのが彼女だけではないことを教えてくれた。慌ただしさの最もな要因はトーナメントの最終試合にあることは明々白々。目の前の彼女以外――二年、三年の保健委員が物資運びに駆り出されているのだそうで、目覚めた俺たちの手当てを任されているらしい。言い回しから察するに爆豪は無事なのだろう。
つい1、2時間前に会ったばかりの保健委員と視線を合わせると、彼女は壁際に立てかけてあった折り畳み椅子を二つ用意する。

「こっち、座ってください。傷見るので」

薬品の並んだテーブルの傍ら、向かい合う形で置かれた折りたたみ椅子に腰かけて保健委員から手当てを受ける。濃い茶色の小瓶にピンセットで摘まんだ真っ白い綿を浸し、それを傷口に滑らせる動作は撫ぜるように柔らかで。くすぐるように黙々と血液を拭きとる彼女の姿をじっと眺めていた。
アルコール液のきつい匂いが嗅覚を強く刺激する。赤黒く染まりぐったりと変形した綿がごみ屑入れに投げ込まれ、ピンセットを置いた手が包帯を取った。

「まさか日に二度も会うとは思いませんでした……」
「そうだな。見てたのか? 試合」
「初戦だけですよ。二回戦から呼ばれて、段々激しくなるから帰してもらえなかった」

音しか聞こえないから逆に怖かったです、と笑って言う少女。裏表のなさそうな笑みを真正面から食らって、少しばかり戸惑った。
しばし遅れて、心配してくれているのか、と他人事のように思う。

「大丈夫ですか?」

ひらひらと、自分の眼前で小さな手が翳された。

「なんだかぼんやりしてますね」
「……少し考えることが増えたんだ」
「そうですか…」

静寂の中に最後の布擦れの音が溶け落ちる。
テーピングを終えた手が離れ、その体温が今は酷く恋しい、なんて。
いつから自分は弱くなったのか。緑谷との一戦以来、迷ってばかりだ。

「ヒーローは誰かを救けるのが仕事だけど、」

始めて会った相手の繊細な感情の動きまで見透かすように、薄い布の下に隠された傷跡を小動物を愛でるように人撫でして。

「たまには誰かを頼るのも大事だと思いますよ」

ふっ、と。
その言葉を聞いた一瞬、身体が軽くなったような気がした。
顔を上げて彼女を見る。

「表彰式、遅れちゃいますよ」

とん、と最後の大仕事に向けて気合を入れ直すように、けれど傷に障らない程度の力で軽く叩いて笑顔の少女は俺を送り出す。

礼を言いそびれたことに気付くのは、それからずっと後のことだった。

2016/07/22 書き上がり
2016/09/01 修正

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