短編

さびしいぼくらのレボリューム


夏の真夜半、僕らはささやかな悪行非行の夜闇に身を浸す。
なまえからの着信に導かれるまま家を抜け出して校舎に忍び込むって、嗚呼、僕はまさにいじめられっ子の鑑のようだけれど、付き添ったのは紛れもない僕の意志であるし、なまえを困らせたいという気持ちも隠し持ってなどいないから補導されても自分だけ逃れたりはしないし寧ろ庇うつもりさえあるくらいだ。
寝間着とも部屋着とも手を抜いた私服ともつかない軽装に包まって、翔けた通学路の先で、僕はなまえと落ち合った。
僕は何故だか彼女に指を結ばれて丘を登った。どちらかの汗腺から絞り出された雫が、僕と彼女の肌の境界に溜まり、互いを個として意識させる。こんなにも近しい位置に在って、身体部位のほんの一部とはいえ、一部でもぴとりと皮膚組織を重ね合わせているというのに僕らは“ふたり”に過ぎず、“ひとつ”にはなり得ない切なさは蒼い炎のように身を凍てつかせる。孤独にならなくて済むための、犠牲的に生じた瓦斯みたいなものだ。
そんなことを考えるのと、あとは深夜に手紙やノートをしたためるのに恥辱を伴わないこと――裏を返せば朝正気になって見返してみるのはとんでもなく恥辱的だということ――と同じように脳の繊細な部位が眠っていたおかげで、なまえと手を繋ぐ現状もそれほど大きなこととしては捉えていなかった。
担任お手製の簡易プールならば、侵入も本校舎のそれよりは断然容易くて。
ありったけの月光の硝子片を詰め込んだ水底は、風に揺さぶられる度に影の深みや光の強度を移ろわせて、まるで流転そのもののよう。けれどそれも眠たげな脳味噌の麻痺具合からなのだろうと考えると素直に賛美できない己の未完成さが歯痒い。

「もしも私が今服のまま飛び込んだら、渚はどうする?」
「びっくりはするだろうけど……。やめた方がいいとは思うかな。風邪を引いたら大変だから」
「そうだよね。先見の明って大事だ。……やめる」

やろうとしていたの、と思ったけれど、あまりじっとりとした呆れは湧いては来なかった。神経も脳髄も何もかもが夜の魔法に惑わされてしまっているんだ、仕方ない。

「ごめん、やっぱりやめる――やめるのを」

その刹那だけ鏡湖となっていた凪いだ水面を、なまえのスニーカーの踵が蹴り破る。
やめるのを、やめる。という言葉が脳を廻っていき、理解すると共に彼女の姿を目に入れようと顔をあげた瞬間の出来事だった。僕の息遣いは宙を踊る水飛沫がくまなく吸い取る。
彼女の零細な蛮行の引き起こしたプール内の空気の乱れもすぐに収束し、半身を水中に沈めたなまえの背と肩がやけに小さくしゅんとして見えた。なまえがゆっくりとこちらを向くと、波紋が広げられていく。僕の立つところより数段低くなった水中から、僕を仰ぐなまえは月光に反して輝かしくはない面持ちだった。

「後先考えずにいられるってことも、もしかしたらもうないかもしれないから……」

未来を見据えて、とか。将来の為に、とか。何百回も言い聞かされた。自分で自分に暗示をかけてきた回数も含めればそれこそ何千回、何万回にも登るほどにだ。
失敗が許されない悲劇なんてもう大前提のお約束のようなもので、現在僕たちを本当に苦しめているものは、今日という日すら、今という瞬間すらもが、明日どころか生きていられるかもわからない遥か先の未来のためにあるという刷り込みに違いない。

「でも、今やりたいことをやったつもりだったけど、もしかしたら違うかもしれない」

服のまま泳ぎたいというのは今この瞬間の自分の思い付きでは無く、数舜前に消しかけた、数舜前の衝動なのかもしれない。と、彼女は語りたそうだった。

「……寒そうだよ」

僕は手を差し伸べる。風邪を引くかも、と先のことは案じずに。眼前の彼女をすくいあげようとして。
手を取ったなまえは一瞬だけぐいと引っ張って引きずり込もうとする性悪なトロルの面を覗かせたけれど、それも刹那的で、しおらしく引き上げられてくれた。
なまえは陸を踏むや否や、水を吸ってデニム素材の色を濃ゆめたショートパンツを絞り、拳で出来る限り水を追い出した。そして呟く。寒いや、と一言。耳朶で拾った僕は自身のパーカーに手をかける。「貸そうか?」と訊ねると静やかな肯定が跳ね返ってきたのでするりと肩から滑らせ、まだ人肌の生温さの残留する上着を手渡した。

「帰る?」
「うん……。ありがとう、渚。ごめんね」
「いいよ。もういいの?」
「うん。もういい」

僕らは何に怯えているのだろう。何か特定の存在や概念に怯えていることにすれば全部が紐解けるのだろうか。ならば何を敵とすればいいのだろう。
雲を掴む様な話で、影を落とす存在もまた雲のような存在なのだと思う。灰色の暗雲は、去って晴天を拝ませてくれるのか、はたまた厚みを増して雨天の門となるのか。前者が幸福であるとも限らなくてお天道様は過ぎた干ばつを齎すのかもしれないし、霧雨がどす黒い屋根を優しく洗浄してくれるのかもしれない。
僕たちはきっと、夢見た未来がいつか自分たちに牙を剥いてくるかもしれないことを恐れているんだ。いつの未来かも定かではない、そんな未来を。
現在と未来の交錯する、零時を境とした夜だから怯えは影を濃くしてしまった。
だけれど、真夏の夜のプールの水で下半身を冷やすのはきっと良くないこと。次からはホットショコラで内臓から温めて、瞑目の助けにするといい、なんて。彼女もこんなことぐらい心得ているから言わないけれど。
どうしようもないくらいどうしようもなかったのなら、僕だって誰かに傍らで涙腺を押さえつけてほしい。誰かがそばにいると強がって、防波堤のように作用するのだ。


2018/04/22
『坂道のメロディ』の「プールに忍び込んでる気分 ねぇ 服のまま泳ごうよ」という歌詞からインスピレーションを頂きました。

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