短編

アフターグロウの浸蝕具合


※卒業後。

いらっしゃいませ、と迎え入れてはならない客人だと文化的な言語で認識する暇も無く、背筋を駆け上っていく冷たい危機意識が身を硬くさせる。人体に突きつけるべきではない、鋭利ななまくら。鈍色に閃光する切っ先が皮膚を裂き、血潮を噴霧しようものなら一介のアルバイターなど容易く葬られる。
本物の強盗犯を眼前に捉えては、脳裏に刻んだはずのマニュアルの文字列が思い出せない。人命と店のレジの中身を乗せた天秤がどちらに傾いたかも見えない。
刹那。薄氷が踏み砕かれるような、薄い金属同士を擦り合わせたような、しかし金属音よりは幾分優しげなようにも思える微音が鼓膜を引っ掻いた。真冬のように空気が重たく靴元へ沈む。
音源を探ろうとレジカウンターの水平線に視線を落としていくと、強盗犯の肘が凍りついており。悪人の肘に触れる第三者の手は、濃紺の日常的にはまず身につけないシンプルさと奇抜さの同居する衣装を纏っていた。ヒーロースーツだ。幸運にもこの場に英雄を職とする青年が居合わせたのだ。
安堵感が心臓を温めていくのも束の間の事、緩い氷結拘束を振りほどいた強盗がその手の短剣をヒーローに向けて振り翳す。虚空に閃く鈍色の閃光は幸い一切の肉を抉らずに、空振りに終わる。回避に伴い短髪を躍らせた彼の口から落ちた「あ……っぶねえな……」という呟きの温度も余裕に満ち満ちたものであったので、ほんの反射的な一言だったのだろう。
緋色と雪色の鮮やかな髪が宙を舞う、刹那の間にあっという間に脅威は取り押さえられた。
先程私が磨いた床に強盗犯を押さえつけているひとりのヒーローの雄姿を間近で目撃し、本当の安堵を得、そこでようやっと私の神経がぴんと弾かれた。ワイドショウの報道の枠で切り抜かれた姿があまりにも視覚に馴染み過ぎていて、画面を通さずに対面したお陰で今この瞬間まで認識が遅延していたが、紛れも無い――この青年は、氷結と業火の二世ヒーロー・ショートその人だ。

「ついてなかったな、あんたも」

あんたとは強盗被害に遭った不運な私を指す二人称なのか、強盗を試みるもヒーローと居合わせた強盗犯を指しているのか。

約数分後に赤いランプに照らされる店内が、血濡れとならずによかったと深い息を吐き出せた時、眼球の裏側が熱せられ、視界が歪んだ。

***

ことん、とレジカウンターにミネラルウォーターと野菜ジュースを一本ずつと固形食二箱を置いた手は見覚えのある紺色のコスチュームに包まれていた。名前と連絡先を教え合うような少なくとも客以上の関係の彼だと気づくや否や、私は脱力的に伏せていた睫毛をぱっと持ち上げる。

「こんばんは。轟さ……あ、えっと、今はショートさんの方がよろしいですか……?」

非公開の氏名の情報を口にするのでやや声を潜め気味に。

「おぉ。一応後者で頼む」
「ではショートさん。あ、ビニール袋でよろしいですか」
「構わねぇ」
「かしこまりました」

至って事務的なやり取りの隙間に、最近は如何ですかなんて世間話を詰めていくのが偶の深夜に展開される幸運な寸劇だ。

「最近、な……。特に変わったことも無ぇけど……。あー、あんたに野菜ジュース買わされ初めて更に売り上げ貢献するようにはなったな」
「すいません、お節介で」
「お陰か最近調子いい気がする」
「気ですか」
「今んとこ気だけだな」

なんていう、ささやかすぎるお戯れ。


「……さぼってるわけじゃねえぞ」

夜勤のたんびにこうちょくちょく来てはいるが、とばつ悪いらしい幼げな表情で視線を反らしながらショートさんは仰るので堪らずくすりとしてしまう。

「そんなこと思っていませんよ。寧ろ助かります」
「助かる?」
「はい。ヒーローの方にコスチュームのままおいで頂けると安心感が違いますから」
「あぁ……制服の警官みてぇなもんか」
「そうです、そうです。抑止力は大事です。それに私もこうしてお話しできるのは楽しいですから。とど……げふんげふん、すいません、ショートさん面白いのだもの」
「面白い、か?」
「はい、とっても」
「そうか。あんた笑いの沸点低いんだな」

いやいやいや。

そうして街と私のヒーローに、またどうぞ、とほかの見知らぬ客に差し出す以上の笑顔をにっぱりと彫り込んで自動ドアの外の夜闇に送り出すのだ。


2018/04/15

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