短編

おねむりキティ


やや遅れ気味に階段を下ってくる轟という低体温青少年に対してクラスメイト達が代わる代わる挨拶を投げかけて覚醒を手伝うというのが寮の朝なのだが。今朝は挨拶の反響が少なく、どうしたのかしらと見遣ってみれば轟の下睫毛の周囲の皮膚は薄い影に蝕まれ、猫背がソファの背凭れにまあるく沈んでいる。疲弊しきった様とは裏腹に欠伸の数は少なめだ。まるでようやっと夜が立ち去ってくれたというような心底うんざりしたような様子に、ひょっとしてうまく寝付けなかったのではなかろうかと思うと気の毒だった。
瞳に半分程覆い被さる皮膚のシャッターをそのまま閉じ切ってしまって、申し訳程度にソファで仮眠が取れればまだ轟も幸せだったろうに。可哀相なことに瞬きはしっかりと挟んでしまうので、閉じかけては開いて、閉じかけては開いてを繰り返すばかりでどっちつかずに堂々巡りを延々と行い続けている。これを夜通しやり続けていたのだとすれば、夢以上の悪夢だ。私はとてもそんなものに耐えられる精神を有してなどいない。

「大丈夫?」
「あぁ」
「顔がやばいよ」
「そうか」
「主に隈がすごい」
「そうか」
「二度寝した方がいいんじゃない? 授業は無いわけだし……」
「そうか……」

駄目だ、生返事だ。私の語りかけた右耳からそのまま左耳に流れ出てしまっている。
くあ、と轟の零した欠伸がそのまま隣の私に伝染した。――朝を回想し終える。

私の膝に頭を乗せても尚眠れずにいる青少年の絹糸の短髪と指を戯れさせながら、ひい、ふう、みい、と彼の畳の目を数えていく。彼方に跳ね飛んでいく轟の紅緋の毛先がふと神経に引っかかり、指先で撫でつけ、他と同じ毛流れに乗せようと試みる。が、手を離してしまえば、ぴょんっ、と元通りになってしまう。癖毛直しは本人に頑張って貰うとして、と始終ぼんやりの轟にちょっかいを掛ける指は別の場所へ向かわせる。少し伸びた揉み上げを耳裏に掛けて流して、すっきりと露出をさせてみたり。こんな風なちょっかいは、猫であると尻尾で床をぺしぺしと叩いて抗議の意を表明するところなのだけれど。
不意に愛玩動物を鍵に想起させた事柄を試してみるべく、前髪の上から轟の眉間にするすると指の腹を滑らせてみた。

「何だ、それ」
「こうすると眠くなるんじゃないかなって」

猫はね、とは付加せずに。羽虫のように私を振り払うのも億劫なのか、はたまた悪い気はしないのか、それとも眠れるのならば厭わないのか、轟は私の好きなようにさせた。
睡魔をサンドマン、即ち砂男とも呼ぶそうだが、ホフマンを薄っすらと知る者からすると眼球を引きずり出され兼ねない人物だそうなので召喚はご免被りたい。しかしながら轟の、ラリマーの石の山に紛れてしまったら見つけ出すのが難しそうな左眼と、鼈甲飴か琥珀のような空柴色の右目を眼窩から取り外して、陽光に透かしてみたりを出来るというのは少々、幽かに、僅かに、本当に少しだけ、でも確かに興味深い――などと胸中を包み隠さず人に打ち明けようものならまず間違いなく誤解を招きそうではあるが、私は特別グロテスクは好まず、ましてやカニバリズムめいた嗜好も持たない。
掌でふんわりと目元に影を拵える。愛玩動物の小さな体躯には、顔全体を覆うのにも片手で事足りるのだが同族の美青少年ともなるとそうもいかない。本来は鼻先も軽く覆ってあげて、自分の吐息を跳ね返えしてやるのが一番らしいのだが、眉間を撫ぜることの効力が薄いというわけでもない。毛布を頭上まで引っ張り上げた時との相違点はこれが人肌であることのみだろう。その一点が大きな差だが、たかが一点されど一点。母胎内、あるいは親の腕に抱かれていた記憶というのは脳内の情報としては抜け落ちても、どこかに残る性質があるのだろう。私たちは安らかに瞑する術を知っているし、同様に瞑目させる術も知っている。
低体温で今日は不眠の美青少年は、力みという名の肩章を取り外し、瞳を閉ざす。

「確かに眠い、かも……しんねェ……」

英雄にもなっていない人間の私でもモルフェウスだ。


2018/03/23
2018/03/24 修正

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