短編

夜明けの食後に


鍵穴と擦れ合う金属音は夢世界での出来事で片づけてしまっていた。しかし直後の扉の乱雑な――ともすれば焦躁を帯びた開閉音にそうでは無かったのだと知らしめられる。睡魔によって虚空と化していた脳の中にシルバーの自我が形成され、次いで初めて危機感が生まれ落ちた。この隠れ家への訪問などろくなことではない、と。悴んだ指だったが、腰に携えていたモンスターボールを掴むだけの動作であれば容易い。戦闘に突入すれば直ちにオーダイルを召喚するつもりで白銀の双眸を吊り上げる。
ぱたぱた、という軽やかな靴音。

「やっぱり……酷い顔じゃない」

ひょっこり、と。顔を覗かせたなまえの登場にシルバーは瞳に湛えていた光を和らげる。

「開口一番どういう意味だ」
「そのまんまよ。とっても顔色悪い。そんな恰好、それにこんな場所じゃ死んじゃう」

満足に冷気を遮断しない、役立たずの防寒具と隠れ家の構造をなまえは指摘する。耳元で睡魔に囁かれようものならすぐさま意識は彼方へ旅立ち、意識下を外れれば体温意地すらままならなくなる、雪山に相当する冬の悪環境そのものだ。
なまえは自身のマフラーと、魔法瓶のモカをシルバーに押し付けた。

「開かない……」
「こんなにむまで放っておいちゃだめ。貸して。ちゃんと飲んでね?」
「あぁ。わかっている」

人を気に掛けるとき親切心がやや押し売り気味になるほど気の強くなるなまえに逆らうべきではない、というのは骨の髄まで承知している。くるくると彼女が蓋を取り外し、シルバーに瓶を突き出すと鼻腔に迷い込む甘やかな珈琲の香り。乾いた唇を開き、ひとくち含んでみれば歯に染み渡り潤いを齎す。嚥下すれば喉を通って下っていき、躰の芯を温めた。
なまえが自身の手袋を外し、シルバーのものもまた同様に抜き取った。裸の指同士を絡み合わせ、摩擦で熱を生み、握って自身の温度を分け与え、時には唇を寄せて色付いた吐息を浴びせて常温にまで引き戻そうとシルバー当人以上に奮闘する。甲斐甲斐しく自分の身を整えようとするなまえの姿に破顔したシルバーのそれは――まさしく綻ぶ花の笑みだった。

「ねぇ、シルバー」

人間らしさの蘇りつつあるシルバーの手を黒の手袋で守り。
なまえが徐に唇を割る。

「この冬だけでいい、一緒に住んでよ」

返礼の不可能な慈悲は与えられるべきではない――そんなシルバーの思想をよく理解していたなまえは、彼が幼子や少女や大切な人間の希う姿には守りの柔らかい事もまた熟知していた。よって先のなまえの言葉は提案ではなく、彼女の願いであり、望みの形を成して唇に乗せられた。思考の主成分すら知り尽くされてはその場限りの回避もすぐに無意味に変わるだろう。手を取る他あるまい。


かくしてシルバーは今冬だけ住処をなまえ宅に移す運びとなった。
なまえの帰りが遅い日はシルバーが台所に立つこととなっている。手の込んだ品こそ作れないが、シルバーとて旅人の端くれだ、火の扱い程度であれば心得ていた。慣れない電気釜には青息吐息であったものの、なまえに伝え聞いた使用法の記憶を頼りに懸命に、たどたどしくボタンに触れた。白米はやや水分を吸い過ぎてしまったが、味に問題はない。
頭の後ろで一本に結わえていた緋色の長髪を、エプロンの紐と同時にばさりと解く。無造作に伸びた髪を束ね、馬の尻尾のように揺らしていると従来の中性的な顔立ちも相まり、少女的な雰囲気に拍車がかかるのでシルバーはあまり好まない。ヘアゴム一本に至ってもなまえからの借り物であるため、丁重な扱いで彼女の食卓の席に置いた。不意に頭の片隅に転がった、彼女の使用分に重なる、自分のヘアゴムの消費数に瞳が揺らぐ。
彼女の負担はシルバーの存在だ。暦が春を数えたならば、多少肌を突き刺す寒さが棘のように空気に溶け込んでいようとも、自分はこの部屋から去っていなければならない。人知れず姿をくらます算段を企てる時、決まって自分の秘めた臆病さに気付くのだ。この日々に終止符が打たれるのを惜しむ、自分の中の声に。気が付いたのだ。
美しい思い出だけを食して生きていられたらどんなにいいか。しかしそれは空想癖の戯言に過ぎないと、なまえとの生活の中で叩き込まれた。人間の構造とは実に複雑で、7割近くが水で構成されているにも関わらず呼吸と水分だけでは生き抜けないのだ。満たさなければ心は痩せ細る。日々擦り減る分だけ注ぎ足していかなければならない。
嗚呼。自分は過去を撫ぜて時に慰め、時に鼓舞して来たけれど。そのやり方を貫くのももう無理なのだ。手で触れられる距離の笑顔に絆されてしまった。
今の安らぎを失うのが惜しい――その裏に貼り付く、今がずっと続けばいいという本心。
青葉など茂らなければいいのに。冬眠についたポケモンたちが目覚めなければいいのに。冬など永遠に過ぎなければいいのに。


2018/02/06

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