短編

氷麗乙女になれるかしら


※登場人物の死描写がございます。

どうしようもないからと自ら命を絶つ真似など、彼は恐らく最後の瞬間までしなかったでしょう。ましてや代わりに私の命を差し出す真似など決して行いはしなかった。愚かな諦めは私の願いで、それを叶えてくれるのは彼の優しさで。
人生最後の晩餐では大切に仕舞って置いた葡萄酒を軽やかに栓を弾き飛ばし、グラスに波々と注いで乾杯を交わすものだとばかり思っていたのに。聖書をなぞり刹那的な幸福に浸る間も無く、終焉とはいつのまにか忍び寄られているもので。覚悟を決める時間も満足には与えられない。

個性により生み出された異空間の脱出条件は“二人のうちどちらか片方が、もう片方を殺す事”、即ち共殺しである。ご丁寧に扉に張り紙があったので知る事は出来たが、その字面さえ私達を嘲笑って紙面に踊っているように見え、引き千切りたい衝動に駆られた。
個性というのは大抵何らかのデメリットや弱点が存在するもので――轟のそれとて左側で補う形を取っているだけであり、右側には体から熱を奪うというデメリットがあるのだ――この異空間に対象を閉じ込める個性の弱点というのが条件突破なのだろう。既に凍結も燃焼も私の個性による強行突破も、思い付く限りの脱出方法は片っ端からぶつけて試みたものの、依然として扉は開く気配がない。開くどころか破壊される気配すらなく、残された道は罠にかかる他無いように思えた。
無慈悲にも時間だけが経過する。外界の様を知る術を持たない私達はきっと無事でいてくれるだろうと希望を押し付け、必死に個性製異空間の脱出路を、例外を探して彷徨った。何も得られるはずがない、と警告を出す脳の片隅からの囁き声には知らん顔を決め込んで。だがどうせ無理だと根を上げる本心を押し込め続けるのに疲弊していたのも確かで。

「ねぇ、轟。どうせなら私は轟と死にたい」

私が有する此れならば、首を狙えば、恐らくは。頑ななまでに私たちを捕らえ続ける扉をひと撫でした手を自身の喉元に充てがい、個性の引き金に指を添える。ここで私が自害を図り成功させれば“相手を殺す”という条件は永久に達成されることはなく、空間内に残された轟は餓死するだろう。私のその読みが正しければこれがほぼ唯一の、共に同じ道を逝く術の残滓だ。もうひとことふたこと別れと愛の言葉を紡いで、最後に一度微笑んだら永遠の瞑目するつもりでいたのだけれど。轟が私の手首を掴んで制した。私同様、轟は生を差し出しも奪いもしないと踏んでいたが、押し付けるつもりはあったのだろうか。それとも本当に奪うつもりか。

「私を殺すの?」
「……そうなるのかもしれねぇな。断っておくが、俺はお前に手を汚させるなんて真っ平だ」

血迷いかけている私を鎮めるためにか交えた唇。

「お前ならまぁそういう頭になるんだろう。なまえが自害すれば俺は殺す相手がいなくなるから、心中同然の死に方になるっつう考えに」
「ごめんね、狂っていて」
「いや……。もっと別な方法もあるって言いてえんだ。簡単だ、自分諸共死なせちまえばいい」
「私のじゃ少し難しいよ」
「出来たとしても、だ。俺を殺してお前が汚れる必要はねえ」
「殺してくれるってこと? 死んでくれるってこと? 一緒に?」
「あぁ」

額を合わせると私の方に流れた彼の前髪と自分のそれとが絡み合う。

「すまねぇ、なまえ。救けてやれなくて」
「ううん。轟のいないこの世やあの世を生きずに済むんだから、よかった」

体がぴたりと合わさると互いの凹凸が組み合わさり、余す窪み無く埋められる。まるで最初から決まりきっていた貝殻同士だ。
温かで冷ややかな轟だけの抱擁の温度が堪らなく愛おしい。
零か百かとは幾ら何でも極端すぎるのやもしれない。しかしこうして巡り合った最愛の片割れを犠牲として命を繋ぎ、例え助かったとしても私は直ちに呼吸を断つ事を選ぶに違いない。私は手を取り合って冥府の扉を叩こうとするほどの愚者であるから。
私の腰を抱く掌に冷たい温度が収束する。雪色の燐光が睫毛の先を彩った。衣服は繊維から凍て付き始め、登る色のついた吐息とは対照に漏れ出す冷気の淡い白が千切れて靴元まで降りていく。直前、私を抱擁する腕力が強まった。
小振りの氷山の剣で私は貫かれていた――轟の胴体諸共。羽根の如きまろやかさで私の皮膚に沈み、骨を砕き、空洞を開き、そして轟を刺突するまでの鮮やかな瞬間を満たしていたのは幸福だったと信じている。肩越しに伺う轟の背から咲き乱れる氷華のあまりの輝かしさに涙が溢れた。
二人のどちらかの浅い呼吸までもが凍てつき、ぱきり、と微かに音を奏でる。その音色は、まるで星に囁かれているようだった。


2018/01/31
雪女的心中を考えていたのです。
『相手を殺さなければ出られない部屋』。

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