短編

とうめい眼窩と落下点


「なんだかさ……近くない?」

投じられた問いかけに何がと答えたくなる衝動は堪え切れたものの、意識の油断から瞬きを一つ零してしまう。目一杯開いた瞳孔擦れ擦れの距離で構えていたにも関わらず、その瞬間私の瞼が閉じられてしまったお陰で目薬の注ぎ口から零れ落ちた一雫は狙いを外れ、ぼた、と下睫毛を舐めるように濡らした。
外した、一滴を無駄にした。何を思ってか、ルビーがこんなところで話し掛けたりするから。

「近いって何が? お陰で外しちゃったんだけど」

中指を下睫毛の線に滑らせて薬液を拭いつつ、先刻の問いを遅れ馳せながら問いで返す。

「目との距離、近過ぎるよ。そんなんじゃいつか傷つけてしまい兼ねない」
「いつもこうだよ、私」

ルビーの忠告にそうかな、普通でしょうと首を傾げつつ、私は顎を逸らして再戦に臨もうとした。が、またしても。

「あー……、あー!」
「何!?」
「余りに危なげで見てられない! 貸して、ボクが点してあげるから」
「心配性。大丈夫なのに」
「いいから」

貸してよ、と流麗な強引さで目薬の容器が手から抜き取られていた。ルビーに似合わない胡座は崩して水平になるように座り直し、ぽふぽふ、と膝を叩いてそこに寝転ぶように促して来る。仰向けになれば頭上の電光が乾燥した眼球を突き刺すものだから、膝に頭を預けて直ぐに私は瞼で覆い隠してしまったのだが、次のルビーの一言で自主的にかっ開く事となる。

「ふふ、その顔、ベリーキュートだね。寝ているZUZUみたいで」
「微妙にひどいし親馬鹿。……早くしてよ」
「わかってるったら。それじゃあなまえ」

逆光で生まれた影が私を見下ろす彼の顔を食べている。

「――ボクの事だけ見ていてね」

真紅の双眸に真上から覗き込まれ。どうしよう、私の眼に張った血管は誇れるほど綺麗ではなかった。おまけにただの親切心さえ情交のように桃色に染め変えてしまう、歯の浮く台詞。知っている、他意はない。背骨を曲げたルビーさえ見上げていれば簡単に点眼を終えられる、それだけのこと。瞳孔は確かに開いているのだから逸らすくらいはいいじゃない、と眼球を横に転がすが。

「余所見は駄目だよ」

其れすらルビーは許さない。大人しく逆光の中でも、まるで自ら光を生む恒星のように輝いている紅の瞳に意識を繋いでおく事にした。
目薬の蓋は薬指と人差し指に挟んで持ち、残った三本指で薬の容器を摘んでいる、そんなルビーの右手。左手はといえば涙袋の付近をそっと抑えて反射的に瞑目してしまうのを防いでいる。
人差し指が圧をかけると透明な薬液が内部から押し出され、その瞬間だけは果実のように注ぎ口に留まっていた。緑豊かなこの地で磨き上げられた動体視力が落とされた雫が迫り来る一瞬を捉える――落滴。

「パーフェクト」

淀みない発音の自賛が私の耳朶を擽る。

「暫くは眼を閉じていてね」
「うん……」

瞼の真下に薄いヴェールを纏わうように少しずつ薬液が覆っていく。水膜と薬液が混じり合い、融け合い、深奥にまで浸透していく。眼の奥に涼やかな爽快感が届いた。
瞑った眼からも外へ滲み出てしまった薬液はルビーの指が拭い取り、無関係に髪を愛でられて。
もういいよ。幼い子供の隠れんぼを想起させる言葉が中性的な声音で紡がれ、降りて来る。確かめるように幾度も瞬きを重ねてから見上げ、そこに変わらない笑顔を見つけた時は、始めて母の顔を視認した赤子みたいな気持ちになった。


2018/01/29

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