短編

ベルベットの海に沈む


悪夢から解き放たれる。この瞬間まで首を絞め殺されそうになっていたわけではあるまいに、喉から手が出るほどに酸素を欲していた。最悪な覚醒だ。乾いた眼球を転がし、一瞥したデジタル時計が示すのは当たり前ながらAMである。自分の荒い呼吸に鼓膜が混線しているのか、はたまた夢に見た最悪な事態なのか――同じベッドに横たわる渚の呼吸が聞こえず、焦る。前者のように雑音に掻き消されているだけならいいが。目覚めの直後で回転の遅まった脳では判断も覚束ない。恐る恐る触れた渚の手首。女性的な腕と掌を繋ぐ場所に通う血管がとくりと脈打つのを人差し指の腹から感じ取り、そこで初めて安堵を得た。
「ん」と寝苦しげな吐息を漏らし、頭の角度を変えた渚に起こしてしまっただろうかと指先が硬直する。渚の容貌の少女感を殊更際立たせる睫毛が震えて、嗚呼……、と思う私は罰が悪い。持ち上がる瞼から現れた瞳は暫く焦点が定まらずにいたが、夜陰の中に私を見つけ出すと光を取り戻す。

「……ごめんね。起こしちゃったね」
「大丈夫?」

どうしたの、ではなく。開口一番、渚は私の身を案じる。私は「大丈夫」と一度答え、また「……大丈夫」と口遊む。再度の返答に果たして意味はあったのか。
マットレス上で身を捩り、気持ちの良い沈み方を探り当てると、今まで眠っていた位置から幾らか渚の方に距離を詰めてみた。淡く微笑む渚は快く私を腕に招き入れ、そして。とん、とん、とん……、と心音を整える、新たなリズムを与えられる。あやされている。その甲斐あって忽ち騒ぐ私の鼓動はあっという間に落ち着いたそれに書き換えられて。瞼に乗っかる脱力感。

「起きたら、一番にキスしたい」

迎えに来た睡魔の隙間におねだりをする。新たな朝陽が悪い物全てを焼き尽くした、聖なるシーツの上で、まず最初に。存在を押し付けてでも渚を感じさせてほしい。
そう思ったのだけれど、まだ室内は夜の色だと言うのにどうしてか私の米神には渚の唇が寄せられていて。鍋で煮て作るホットミルクやホットココアより、睡魔を呼びつけるのが上手な渚のキスは効果覿面。しかし待てが下手な子供みたいに凡そ数時間、前借りをしてしまった。

「……しちゃったね」

うっかり、とか、つい、みたく、彼が言う。
うん。しちゃった。してしまった。欲張りな彼に、欲張りな私だから喜んでしまった。

「明日も……、ね?」
「うん。明日もしてあげる。幾らでも」

その明日も、もう今日なのだけれど。
そんなことはもういいでしょう。

***

小鳥の囀りに覚醒を促されでもしたかのような、爽快な目覚めだった。実際には私の可愛い少年に啄ばまれたようなのだが。額に贈られたキスで果たされた小さな約束。瞼を開けば、水色の少年。

「おはよう」

そう渚に微笑まれれば、愛が湧く。

「おはよう。渚」


2017/12/26

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