短編

不確かなものにばかり恋をする


それは、気付いた時には遅かった、なんていうものではなくて。芽吹く前からもう叶うものでは無かったのだ。

音を立てて彼女の顔の真横に腕をつき、壁と自分との間に細身の身体を閉じ込めてみても。美しく輝く双眸を一杯に見開くなまえの表情に滲んでくるものと云えば怯えばかりで、得られる快楽は何もなかった。らしくない。つまらない。蹴り飛ばすなり何なりして実力行使で逃げ出すとばかり思っていたのに。乱暴な強行手段に及ばない、怯えることしかできない非力な少女はルビーの愛した少女ではないのだ。

「初めて見たよ、君がそんな顔してるの。怖いのかい、ボクが」
「…………」
「無視しないでよ、ねぇ、なまえ」

呼びかけて、手で触れる。
くらくら、と惑わされでもしてしまいそうだった。自分の指先を這わせる肌の白さに。吸い付くような柔肌に。頬を撫ぜていき、くいと顎を掬って強引に視線を結ぶ。嗚呼、これではさながらキスをする直前だな、と曲げた口元に微笑を乗せて。いっそのこと、と意地悪い思考を廻す。いっそ本当に奪ってしまったら、どうなるだろうか。どう思って、くれるのだろうか。それくらいで傷付いてくれる繊細な心をこの子が持っているとはルビーには到底思えないけれど。彼女の中でのルビーという存在が、行為を境に何か変化を起こすことはまず間違い無い――と云うよりも、変化が起こってくれなければプライドが傷つけられるというものだ、それなりにインモラルな行為を強要して押し付けて強引に進める訳なのだから、無表情で110番通報などされたらたまったものではない――。

「…………やめて」
「何をかな」
「やめて、離して」
「できるでしょ。押さえつけてもいないんだから」
「あなた何なの。突然。何のつもり?」

覗き込んだ瞳に揺れるのは恐怖、というよりは焦燥か。へぇ、それは――興味深いね。

「こっち見てよ」
「嫌」
「見ろったら」

いくら気丈な振る舞いをして見せていても。いくら頭が廻っても。やはり可憐な少女のものでしかない肉体とは弱いもので圧倒的な力の前では屈するしかない。やっぱり。つまらない。つまらないんだ。なまえには、なまえにだけは囚われのヒロイン気取りの、普通の女の子ではいて欲しくなかった。

「なまえは他の人に見せる表情、ボクの前で見せてくれないよね。他人にする顔、ボクには絶対しないよね。ボクの事が嫌いなのって、どうして?」

ぎゅう、と顔の輪郭を掴んだ手に力を入れる。指先を食い込ませた頬が潰れたなまえの、台無しになってしまった美貌にほくそ笑んだ。顎を捉えるルビーの手に自らの掌を重ねて逃れようとしてくるなまえ。顎元を解放してやる代わりに今度はその手首を捕まえてぐいと壁に押し付けた。

「ねぇ、わかる? その気になれば君の事なんてどうとでも出来るんだよ」

嫌がる相手を無理矢理だなんて本意ではない癖に割り開いた口から飛び出すのは脅しとも取れる台詞だった。

「……どうして、って貴方言ったけど。理由なんて必要?」
「必要だよ」

そうじゃないとルビーの気持ちに説明がつかない。
追い詰めている格好でいるのはルビーの方だというのに、いつの間に配役は逆転を遂げてしまったのだろう、不思議と余裕なくいるのもルビーの方になっていた。

「好きなら好き。嫌いなら嫌い。私は貴方のことは嫌いじゃ無い。もちろん好きでもないけど。好き嫌いじゃなくて、“イヤ”なの。それだけ」
「初めて聞いたな、そんなの」
「私もこんなこと初めて言った」
「それならボクの気持ちってどうなるんだろうね」

ルビーの気持ちなど自分には関係ないとでも言いたげななまえの鋭くされた双眸と視線を結んで、ふっ、と唇を曲げた。身構えるなまえの力んだ腕からするりと手を離し解放してやる。

「ボクは多分、君が好きだ。でも不思議なんだ、君に好きになってほしいとは思わない。なまえが四六時中ボクのこと考えていれば良いのにとは思うのに。ボクのことを好きになるようななまえは、ボクの好きななまえじゃ無いんだよ」

欲している。彼女を。心の底から。だというのに大事な人にほど真っ直ぐに自分を見ないでくれと願ってしまう。その癖相手の頭の中は自分で埋め尽くしてしまいたいなんて独占欲と征服欲だけは一丁前にあるのだから勝手も良いところだ。
眼を奪われたのは自分ではない何かに夢中になっている姿だったから。自分ではない誰かに微笑みかけている幸せそうな横顔だったから。自分の言葉で彼女を翻弄していたい、しかしなまえの瞳がルビーだけを映す日が来れば夢が終わるように熱は冷めてしまうだろう。
本当に欲するものはずっと手の届かないままでいて欲しいのだ、と。そうしてまた、矛盾を紡ぐ。


2017/03/19
2017/11/04

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