短編

夏雲テンプテーション


※学園パロディ

じりじりと照り付ける熱が校庭の砂場を焼いていた。
8月も半ばに差し掛かり、季節は真夏。見上げた空から容赦なく襲い来る直射日光に、思わず瞼を下ろして視界を狭める。
深く青い空に一筋の飛行機雲。飛行機の後を親を追うアヒルみたいに、飛行機雲がまだらに歪んで広がっていく。
その向こうに見える、真夏の象徴入道雲。手を伸ばしたら届きそうなほどにそれは近くて――遥か遠方を見据えた。

体操服をはためかせ、見慣れた後ろ姿が風の中を駆け抜けていく。中性的な横顔に煌めく、宝石のように透き通った紅の目はいつにも増して真剣で、半袖から伸びる乳白色の華奢な腕からは汗を滲ませている。
あんなに汚れることを嫌っていたのにな、なんて藍の目の同級生との痴話喧嘩を瞼の裏に思い起こしながら。
手の中から滑るように零れ落ちたボトル容器が、砂利の上に短い光の筋を引く。
焦がれる相手の見慣れぬ姿――なまえはその背中をぼんやりと見送っていた。

「なまえさん、ルビー君のことどう思ってるの?」

不意に視界の端で揺れた陽色の髪が問いかけた。柔らかそうな髪を一つに束ねた、ジャージ姿の小柄な少女は同じ陸上部の先輩で。無意識に取り落としていたペットボトルを差し出されていた。

「えっ?」
「だってずっと見てるから」

ふわりと優しげに細められた淡い常盤色の双眸に、陽だまりのような温かみを感じさせる笑顔が花開く。

「私は別に……ただクラスで目立つから……その、気になって」
「そうなの。でも、ルビー君てかっこいいよね」

そうなんですか?もう一度、きょとんと彼女を見つめれば、クラスの子たちが話していたんだと言葉と共に微笑まれる。
そのとき、聞きなれた男子生徒の無邪気な声が「イエロー!」と彼女の名を呼んで、くるりと首を動かしてその姿を確認すると金色の髪をなびかせながら、小さく手を振る愛らしい仕草を残して踵を返してしまった。
ぱたぱたと駆けていく可愛らしい姿に手を振る男子生徒がちらほらと見当たる。常に自然体をさらけ出している少女が人気を集めるのは、ちょこまかと動き回る小動物のような庇護欲をそそる言動もあってのことだろう。自分の中で勝手に納得をして、額に滲んだ汗を拭う。

自分の肩越しに視線を投げると、顧問と何かを話しながら、荒い息を整えるように肩を上下させるルビーの姿が目についた。
日差しの眩しさに、立ち眩む。グラウンド全体に降り注ぐ日光か、はたまた彼の纏う白なのか。怪しい光が私の睫毛を撫でつける。
広がる夏空で、雲が反射した。
惑わされているのだろうか。夏の雲のように近くに見える彼の存在に。
首筋に汗が滑った。胸中に疼いた微かな欲望を抑制するようだ。

「見学中のところ悪いけど、なまえさん、そこのコーンしまっておいてね」
「あっ、はい! ごめんなさい」

通りすがりの先輩マネージャーからの嫌味を含んだ口調に窘められ、両手に抱えていたペットボトルを全て右腕に持ち替えて、傍に立っていた真っ赤なコーンを左手で握りしめる。
一定の距離を置く度に持ち直す三角コーンは次第に量を増していき、抱えているだけでも足場を崩しそうになる。両手にそれらを余らせながら、体育館倉庫に足を踏み入れた。
薄暗い壁にぽっかりと一つだけ開いたような窓から、色紙細工のような西空が覗いており、凶悪な昼間の太陽と打って変わって、迫りくるような日光が直接顔面を照り付ける。
手加減知らずの夕焼け空と格闘する中で、ペットボトルは置いてくればよかっただろうか、なんて赤い三角を積み上げていると、ふと背後に人の気配を感じた。

「あ」
「え」

少年のような少女のような、扉の前に立つ不思議な雰囲気を纏った影に声を漏らす。刻々と色を闇そのものに近づけていく夕焼けの中で見る彼の肌は、綺麗な朱色に色づいていた。
クラスメイトのルビーくん――。切れ長の大きな瞳に中性的な顔立ちの少年は、あまり自分とは距離を置かずに手を伸ばせば届きそうな場所で立ち止まっていた。
2メートル……も、あるのだろうか。
近すぎる互いの距離感が何かを狂わせる。色濃く落とされていた影が伸びて、僅かに芽吹いた戸惑いの息吹を感じながら。

「お疲れ様。何してるの?」
「片付けを、頼まれて」
「僕は忘れ物」
「そう、なの……」

上擦る声を誤魔化すように短く区切る。
まるで、意識しているのは自分だけだと――耳のそばで大砲でも打たれたように大きく高鳴りを見せる心音も、彼の口から嘘だと否定されているみたいだ。
何事もなかったかのような表情で少年による、静かな一歩が踏み出された。みしりと小さく悲鳴を上げた古い床板に、少なからずの不安を抱く。

「教室でもずっと目逸らされるから嫌われてるんだと思ってたよ」

それは、どういう意味だ。
でも違ったみたいだね。にこやかに言い切って、先ほどよりも間を縮めた彼の笑顔が近くにあった。床に落としていた視線をそちらに向けた途端。
がたん――ペットボトルが腕の中から転がり落ちた。
何も考える余裕なんてなかった。彼が言うや否や、気が付けば、私は壁に縫い付けられるように背中を向けていて。背に感じるのは冷たい木目の感触だった。

「忘れ物なんて、嘘に決まってるのに」

両手を押さえつけられ、遥か頭上に持ち上げられる。
何も言えないまま暫しの硬直状態に陥っていた私の頬を撫でる。唇を見られている。なにこれ、なにこれ。
あの腕が私の手首に絡んで、指がしなやかで、夕日を反射して。

――僕のこと、見てたでしょう?

今にも鼻と鼻が触れ合いそうな距離で彼はそう囁いた。
女の自分よりも長い睫毛が動いて、ぱっちりと見開かれた双眸には戸惑いを含んだ己が写っている。
薄暗く、差し込む茜色が唯一の光の根源である狭い空間の中、女と見間違えそうなほどに白い肌がより一層、黄昏色に染まったように。夏の魔力のすべてが彼に味方をしているのだろうか。そう思わせるくらいに、美しい――。
夕日のようにきらめく瞳に拘束されて、もはや私の意思はそこにはなくて。

「離してよ。ここ学校だし、誰が来るかもわからないし……」

状況を打開するために精一杯考えた抗議声明を小さく唱える。
その言葉に、その人は何を言うでもなく微笑んで拘束を解き、右手が肩を撫でるように滑っていく。「関係ないよ」なんて、答えながらに喉の奥でくつくつ笑うと、あまり目立たないとはいえ男性特有の喉仏が震えているのがよくわかる。やんわりと引き寄せられて、されるがままに、二人の唇はごくあっさりと触れた。自身の唇に押し当てられたそれは優しく撫ぜるようにして、やがて離れていく。
ファーストキスはレモン味、とはよく言うが実際は感触を確かめる間もなく終わってしまうほどの子供じみた幼い口づけだった。だから味を認識するなんて以ての外で。
徐々に力を緩める腕から解放されると何も言えずにお互いから視線を外す。
恥じらいから来るしばらくの硬直状態では思考回路もままならない。
すっ、っとごくごく自然な面持ちで二人の間に距離を開けた、他でもないルビー当人によって我に返る。

「あの……! まって。わた、し……すきなの……!」

自分の追いすがるような声色が、踵を返して立ち去ろうとする背中を引き留める。
思いのほか、すんなりと外に出てきた本音に戸惑って、恥ずかしさに目を伏せた。行き場をなくした視線がふらふら足元を彷徨って、それでも上着を握った手は離さないままで。
どうしよう、どうしたら。
自分が引き留めたという事実をうまく飲み込めない中で、混戦状態の神経を一色に染め上げたのはまた同じように押し当てられた、柔らかな感覚だった。
温もりの離れていく唇を抑えて、急激に血流のよくなった顔に片手を添える。

待っていました、やっぱりそうでしょ? 思惑通りだと微笑む少年に、悪魔の影を見た気がした。


真夏の罠にかかった僕ら


2016/04/27

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