短編

古びた指輪を月に見立てて


ひだりてのおはなし。やや未来。

投じられたモンスターボールがフシギバナを吸い込むと、ボールは跳ね返るようにレッドの掌へ帰り着く。その際、かつん、とボールと指を飾る金属の輪っかとがぶつかり小さな音を奏でた。その誰の耳にも届かないような指輪とボールの衝突の微音は、当然私の鼓膜を震わせることはしなかったけれど、控えめに煌めく指輪の閃光は――私達はお互い、お互いのものであるというその印は、会場の特大スクリーンの中で一瞬だけその存在を見せつけてくれたから。それだけで幸福という幸福が腹を、肺を、全身を、心を満たす。
モンスターボールに納められたフシギバナと入れ替わり、召喚されたピカチュウは地に足を着けると同時に小さな指をふりふり、フィールドに稲妻を呼び寄せた。ピカチュウ、ピカの操る“かみなり”が相手を撃ち抜いて。閃光が目を焼いて。轟々という雷鳴が遅れて耳元にやってきた。
不躾に肌と背筋に触れてくる、連戦連勝の若きチャンピオンを一目拝もうと挙ってやって来た観客の雄叫びにも似た歓声。吠える彼らは手を打ち鳴らして祝福し、
エキシビションマッチとは思えない派手なひと試合はここにレッドの勝利という結果をもって終局を迎えた。
レッドは一般席に忍んでいる私をいつの間に見つけていたのやら。振り返り――瞬間、周辺の空気と人々がざわめく――にかっ、という相変わらずの無邪気な笑顔とピースサインをくれた。私の周りの誰もが自分に向けられたファンサービスだと思い込む中、やっぱり私もまたあれを私だけに贈られた笑みとピースと思っていて。熱くなっている頬を綻ばせ、少年から青年へと成長した赤い背中が去っていくのをを観客に入り混じりながら見届けた。

つい先日このカントーばかりか隣接する古都や遠い豊艶な地、北端を雪に覆われた北の地までもを震撼させた報せに、直接に自分が絡んでいるどころかその中心にいたなんて、その騒動が収まりつつある今も私は信じられない。
最年少にてカントー地方を制し、王座についた少年、レッドの結婚。相手は同郷の女性、マサラタウン出身のルチル――そう、私である。辺鄙な田舎に生まれ育ったどこにでもいそうな普通の少女で、ポケモントレーナー。それがルチル、それが私。
同郷のレッドも、身内の中で少しばかりバトルの腕が立つという程度のあまり私とは変わらない夢見る少年。もしかしたら……、いいや、きっとこの男の子はチャンピオンになる、と幼い自分は当時から思っていたけれど、それは特別才能を感じていたわけでも、心の底から信じていたわけでもない。ただ自分の知る中で一番強いレッドを、自分の知る中で一番強い肩書きであるチャンピオンに、未発達の頭が直結させてしまっていたにすぎないのだ。
しかし彼は成って見せた。王者だけが登ることを許された高みに、至ってみせた。
少年の夢の三原則である、友情と、努力と、勝利。それだけじゃない、知恵と、ラッキーと、色々がカラフルに入り乱れた賑やかで真摯で悲しげで楽しげな旅路を彼は大層嬉しそうに話して聞かせてくれるから。その時の顔があまりにも昔の彼から変わっていないものだから。
チャンピオンとしてではなく、英雄としてでもなく、ついて回る図鑑所有者という名誉ある肩書きすらも一旦コート掛けに掛けた、“レッド”に私は向き合える。チャンピオンをやり切った何者でもないレッドの傍らにこうして並んでいられる。
夏の嵐のような結婚報道の熱がまだ冷めていない取材陣を振り切る頃には空には月が浮かんでいた。
そうすることが当たり前であるかのように、私は自分の右手を、レッドもまた自身の左手を、出し合い、重ね合う。私は大多数がそうなように利き手は右だが、レッドはその逆で左利きだ。だからなのか――こうして決まった手を決まった立ち位置から差し出せるようになのか――いつの間にだか並んで歩く際の左右の位置は決まってしまっていた。右利きと左利きの恋人たちは自然と手を繋ぐ回数が増えると聞くが、私達もきっとそうなんだろう。
きつく、かたく、指まで絡めて、簡単に解けてしまわないよう握り合う。

「痛っ」

私の声にレッドの左手の人差し指がぴく、と跳ねた。

「レッド、痛い。指輪食い込んでる」
「わっ、ごめん」

ぱっ、と離れていく慣れ親しんだレッドの体温を惜しく思う。

「こっちの手、繋ぎやすいんだよな。けどやっぱり外さなきゃだめか?」

手、繋げない方が嫌だし。ぼそ、とそんなことを零す唇を尖らせて、渋々というような表情で薬指から指輪を抜き取る。外してすぐに、「ん。」とつい今しがたまで繋いでいたその左手をレッドは私に差し出した。私は喜んで彼の手を取る。

「ぼろぼろだね、すっかり」
「いっつもつけてるもんなぁ」

星のような淡い金色の指輪を空に翳して、赤い瞳はその輪の中から月を覗き込んだ。満ちかけた月は輪に簡単に収まってくれたが、端の方の隙間が目立つ。完全な満月だったら指輪に嵌め込めてしまえたかな。宝石の装飾が施されていない、飾りっ気のない金のリングにお月様を飾れたらそれはどんな宝玉を乗せたアクセサリーよりも美しい。
さあて。帰ったら、まず何をしよう。彼はバトルやポケモン達と触れ合うことと同じくらい、食べることが好きだ。たっぷりと戦った後であるし、帰ってすぐにぐうきゅるるとお腹を鳴らすだろうか。その後は、今日の映像を家のテレビで何度も何度も繰り返し再生する。映像なんて後から幾らでも見られるのだからとスクリーンには目もくれず、スタジアムの中の点か、粒が駆け回っているようなレッドの姿をずっと見ていたのだ。ちゃんとかっこよく映っている彼も見ないと、彼の試合が終わっても私の試合は終わらない。いつもその日の試合映像を自宅で繰り返し巻き返し鑑賞していると、最初は自己研究とファインプレーのシミュレーションに共に励んでいたレッドも、途中からは飽きもせずに再生し続ける私にいい加減恥ずかしくなったのか、「もうやめようぜ……?」と赤い大きな電源ボタンを押そうとする。レッド以上のレッドファンがそばにいるとはそういうことだ。きっと今日もそうなるんじゃないのかな、なんていつものお約束を思い浮かべながら、ふふ、と笑みを零した。
今夜はプテラには頼らない。

***

ばたばたばたっ、と階段を駆け降りる足音に、朝の訪れを告げるポッポのさえずりが止まったかと思えば、窓の外で数羽の鳥の影が飛び立ち、羽音が遠のいていった。
一体全体何事かと、泡だらけの手をひらひらふりふりの今しか着られないようなエプロンで拭って、顔を覗かせる、と。ソファに置かれたクッションを持ち上げて戻して、カラーボックスや本棚の壁との隙間を覗き込んで周辺も見て回って、と足音以上に慌ただしく

「ルチルッ!! 指輪、見なかったか!? ごめん、ちゃんと昨日時計のとこに置いといたはずなのに見つからないんだ! 本当ごめ――」
「これのこと?」
「へっ……? あっ、あるぅ!? ……ってなんだこれ、チェーンか?」

つん、と指先でレッドがつつけばチェーンを通された金色のリングは揺れる。
「そう、」愛の証として常に身につけてくれる優しい彼の左手はより心の臓に近いけれど、よく使われる方の手だから、すり減りに擦り減っていつか指輪が消えてなくなってしまい兼ねない。ちょい、ちょい、と手招きをして屈ませ、キスをするときに似た体勢を作らせた。彼の襟足に腕を回して留め具をぱちんと止める。そのまま離してしまう前に、ちう、とレッドの唇に吸い付いた。初めての時はうっかり前歯同士をぶつけてしまって、負けず嫌いなレッドと一緒にもう一度挑んだ二度目は唇を切ってしまったキスも慣れて、柔らかい感触も唇に馴染んで。でもきざったらしいこの振る舞いは駄目だった。レッドと視線が交わって、恥じらいを呑んで不格好に微笑んでみる。

「えっへへ。ね。こうしておけばいいかなって思ったの」
「おぉ……!」
「浮腫んだ時とか、あぁ、太っても大丈夫だけど、油断しちゃだめよ」
「しないって! バトル、あれ結構体力使うんだぞ!」
「わかってるわよ、私だってトレーナー引退したわけじゃないんだから」

つん、と今度は私がつつくと朝の日差しをたっぷりと湛えて指輪は彼の胸元で揺れた。


2017/07/18
左利きと右利きの恋人は手を繋ぎやすいと聞きます。指輪は左手薬指、ぎゅっと繋ぐと食い込んでしまう。加えて、利き手なのでぼろぼろになってしまいます。ですがいつもつけている証です。三重苦ならぬ三重萌え。一粒で三度もおいしいです。
誕生日おめでとう*

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